偉人『感性の文学者 島崎藤村』

日本教育を受けていたら島崎藤村の名前を聞いたことが無いという人はいないであろう。日本の近代詩に新しい風を吹き込んだ人物であり彼の作品は実体験を反映した赤裸々な内容が読み手に多くの刺激や物事の捉え方を考えさせてくれる。彼には詩人としての側面と小説家としての二つの顔があるが、個人的には彼の描いた世界観を何も考えずに読む詩が好きである。前回の取上げた偉人『クロード・ドビュッシー』(2022年5月13日記事)の音楽のを聴くかのようにただ感性の感じるまま自分の中に取り入れることができる。少し脱線するが藤村がある出来事から逃避しフランスへ渡ったときにドビュッシーを評した文章があり、脱線かたがたその文体から今回は話を進める。

『その後方に、深思するかの如く洋琴の前に腰掛け、特色のある広い額の横顔を見せた、北部仏蘭西人の中によく見るやうな素朴な感じのする風来の音楽者がパルドオ婦人の伴奏として、丁度三味線で上方唄の合いの手でも弾くやうに静かに、非常に渋いサッゼスティヴな調子の音を出しはじめました。この人がドビュッシーでした。』

私がはじめて島崎藤村に出会ったのは母の歌う『椰子の実』や『惜別の歌』『小諸なる古城のほとり』だった。夕方のお散歩時に母がよく歌ってくれた『椰子の実』は心地良く好きで今も鼻歌混じりに歌うことがある。親友の柳田国男が実際に愛知県の伊良湖岬で漂白している椰子を見つけた話に自ら故郷を離れて彷徨う憂いを読んだ詩であるがメロディーが良過ぎて憂いはどこへやらである。

子供が幼稚園の頃は彼の作品を親子で暗唱したものだ。『初恋』『千曲が旅情の歌』『朝』を唱え彼の情緒的で瑞々しさを感じるには有名人の朗読で聞くのもまたおすすめである。高校時代国語教師が『初恋』の出会い・芽生え・成就・恋を振り返る四連構成を熱弁してくださりそのときの教室の映像が思い出されます。その当時恋をしていたかはもう定かではないが年を重ねても美しいと感じる作品だ。

彼の詩は日本の持つ独特の美しい世界観を簡素な言葉で誰にでもストレートに伝わる表現であることが最大の魅力である。その情感たっぷりの表現がどう育まれたのかを考えてみよう。

1872年国学者であり宿屋を経営する父正樹と母縫の7人兄弟の末っ子として誕生する。6歳で『孝経』『論語』を学びんだ。しかし父は精神を病み寺院に放火し投獄され獄中死する。母は父の子供ではない兄を生み父の子として育て、姉も精神をきたした。この家族特有の精神を病む様子を見せまいと兄に連れられ岐阜から9歳で上京した。東京で藤村は中国古典や松尾芭蕉をこよなく愛し、現開成高校の全身である共立学校や慶応義塾の分校である三田英語塾で日本・中国文学や西洋文学やシェイクスピアに傾倒し明治学院に進学する。彼の文学的才能は幼い頃の学びの賜物であったが、彼がそこまで文学に打ち込んだのはやはり文学が純粋に好きであるということと複雑な家庭環境と家族特有の精神的病いを患う家族からの逃避であったと考える。文学に没頭している間はそのことを考えずにすむのであるから心のバランスを取るに文学は適していたのかもしれない。

やがて藤村は詩の世界から小説の世界へと方向性を変えることになる。この頃から自らの身に起きた事を赤裸々に小説にしていったのである。身内におおいに悩まされた彼であったが彼もまた同じように衝撃な事件を起こすのである。子供の頃から見聞きしてきた環境というものは忌み嫌い避けてもどうしても影響を受けてしまうのは彼だけではない。文学界のみならず世界的な芸術家にも似たような経験をしている人物がいる。そこに不思議さも感じるがそこから脱却するためにどうするべきなのか、更に多くの偉人達を分析研究した文献を読み考察を重ねたいと大きな野望を抱いている。

島崎藤村もクロード・ドビュッシーも幼い頃の苦しい家庭環境にあって感性を磨くチャンスをそれぞれが手に入れてわが道を歩み現代の文学界と音楽界に大きな影響を与えた偉大なる人物である。個人的な意見であるから読み流してほしいのであるが彼らの女性に対する態度はいい難い許しがたい思いがある。男児をお持ちのお母様にこそ女性の人権を守る教育を徹底してほしいと考える。男尊女卑の考え方は女性である母親の責任もあるのだ。こんな文章を最後に残せば読み流せないであろう。では来週金曜は彼らとは正反対の人物『高村光太郎』を取上げる。乞うご期待。

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