偉人『チャールズ・シュルツ』

子供の頃クリスマスのプレゼントにスヌーピーのぬいぐるみをお願いしたほどスヌーピーが好きだった。とはいえスヌーピーのコマ漫画を読んでもなぜこんな愛らしいキャラクターたちがマイナス発言や逃げ口実的なことを話す内容なのか小学校低学年の私には理解ができなかった。今思えば子供の私には人生の本質を解くピーナッツの内容を理解するだけの経験値がなかったである。しかし今回改めてシュルツの生い立ちを確認するとその理由が見えてきた。ピーナッツに登場するチャーリー、ライナス、ルーシー、シュローダーなど全ての登場人物の中にシュルツ自身が描かれているのだ。この作品全てがシュルツ自身であるということを頭の片隅に置き、今回はシュルツの描いたピーナッツに登場するキャラクターらの語る子供らしからぬ発言はどこからくるのかを紐解いていく。

1922年アメリカのミネソタ州ミネアポリスで理髪店を営む父カール・フレデリック・オーガスタ・シュルツと母ディナ・ベルティン・シュルツの間に誕生する。彼の絵の才能はすでに幼稚園に通う5歳で保育士が「シュルツはアーティストになるだろう」と絵の才能を認めていたほどであった。彼と漫画の出会いは父カールが読んでいた新聞に掲載されている漫画である。父の漫画を楽しむ姿に感化され、母もシュルツも新聞の漫画に魅了されていった。

シュルツは絵の才能があるだけではなく学業にも優れており、2学年飛び級するほどの優秀な生徒であった。しかし体の小ささと内気な性格から飛び級したクラスに馴染めず、また年上の同級生からのイジメにあい学校で自分自身を表現できず悩みどんどん成績が落ちていった。そしてその経験がチャーリー・ブラウンのキャラクターに反映されている。

ピーナッツを読んだことのある人ならばチャーリー・ブラウンやライナス、ルーシーが子供らしからぬ発言をしていることに違和感を感じるであろう。なぜ子供のキャラクターが大人っぽい発言を淡々と発言するのか、このことについてのちにシュルツはこう語っている。

「私の作品で子供が大人っぽいことを言っているのではないのです。注意深く子供を観察していれば、子供の言っていることの本質は大人と同じだとわかるはずです。」

このシュルツの発言の真意はどこにあるのかを考えてみた。この仕事をしてると子供の世界のイジメについて耳にすることや相談を受け意見を求められることがある。その経験を踏まえてシュルツの話していることの真意は、彼が経験した飛び級学年でのクラスメイトから受けたいじめが関係しているであろうと容易に想像できる。

子供は本来大人のような深い思考で生活しているかといえば、その日その日を楽しくなんとなく過ごしているように思う。しかしイジメやその他の精神的ストレスに置かれた子供たちは、子供として抱えきれない苦悩的思いを抱え、悩み考えあぐね、心を痛め様々な葛藤を持っていたりする。そこから逃げたいと思う子もいれば、ただただ辛抱する子、中には当時の記憶を思い出せない子さえもいる。

シュルツの場合そのような状況に置かれても好きな野球やアイスホッケーなどで体を動かすことを楽しみとし、重く苦しい気持ちを一瞬でも忘れることができ、絵を描くことで没頭できるものを持ち、そして支えてくれる家族がいた。彼自身が孤独にならずに済んだ状況があったのである。しかしイジメというものはそう易々と忘れることができるものではなく、子供の心に少なからず傷を残すことになる。しかし面白いことにこの偉人の分析をしていると、イジメを受けた側に適切な心の持ち方を教える大人がいれば後半の人生に大きな花を咲かせ、イジメた側が苦労している場合が多いように思う。こう考えると逆転の法則があるようでもあり、これが正負の法則であるのかとさえ感じる。

シュルツの描くピーナッツに登場する子供たちの発言は、大人が描きがちな天真爛漫で差とはかけ離れて、人生はうまくいかないと嘆いたり、辛いことを受け入れることや何度失敗しても諦めず前を向き続けること、切ない気持ちを吐露したり、人間の表裏や建前と本音など清濁を飲み込んだ経験を語る場面が多い。子供の純真さや天真爛漫さとはかけ離れたことを口にするギャップが大衆ウケしたのだろうし、誰しもがこのような感情を持ち合わせていることが読者の心に刺さったのだと考える。このように深く考えそれを作品ですることができたのは、シュルツの幼い頃の体験が土台になっているのである。

なぜ私がそう思うのか、それはシュルツのような体験をしてきた子供たちの存在を知っているからだ。本来子供の成長は少しずつ社会に揉まれ、人の裏表を見聞きし、人の感情の起伏と向き合い、本音と建前や物事の表と裏を見てどのように受け止めどのように行動するのかを学んでいくのであるが、このような経験が小学校や中学校で突如として起きたら受け止めきれないのである。そのような苦しいことを我々大人がどう向き合うかで苦しんでいる子供をひとりでも守ることや救うことができると考える。

本来家庭や教育現場でどのように対処し教育していくのかを考えるべきであり、それが大人の責任ではないか。学校という狭い社会で未熟な子供同士のイジメには、それを指導すべき大人が介在しなければ解決しない深刻な問題がある。シュルツの場合にはその問題を理解する教師がいなかったが、その問題から一瞬でも遠ざけてくれる漫画とスポーツ、そして温かな家庭があった。だから彼は自分自身の経験を表現することができ、世界的に有名になったのである。


さて、『なぜ子供間のイジメがいけないのか』と問われて皆さんはどう答えるか。

答えは実にシンプルなものである。幼少期から思春期までには、子供自身がしっかりと自分自身の存在を認める時間が必要であり、その自己肯定感を育てるには周りから認められることが重要である。家庭では両親や家族から、学校では教師や友達からだ。私の尊敬する小学校教諭のO氏はクラスからいじめを出さないように、O氏自ら生徒一人一人の良き所を見つけ発信し、子供たちも友達の良き所をお互いが認め合い本当に素晴らしいクラスなっていた。これが毎年というのだから父兄からの支持が高かったのはいうまでもない。

子供の世界には少なからずイジメは存在する。しかしそのイジメは小さく浅いうちに摘み取る必要があるのだ。私はその摘み取りの原型は幼児期の保育者の指導にあると考える。両者の言い分をよく聞き、その原因を精査し謝る側と許す側を仲介し事を治めるのである。そこを徹底して保育した子供たちに道を逸れる子供はいるだろうか。たとえ道を逸れかかったとしても必ず子供自身が軌道修正して戻ってきてくれると私は信じている。だからこそ教育の前に保育が重要であるとお母様方には伝えておきたい。また保育士の資格を持っているが給与の安さから別の職に就く保育資格者が多いと聞く。将来を担う子供に関する仕事をする人の補償をすることこそが未来の日本を背負って立つ人材育成の保障となりうるのではないだろうか。

シュルツの作品ピーナッツでは自分自身の経験から物事を深く考えるように人間の本質を解いている。私が幼くして彼の作品を読んでも理解できなかったのは彼のような体験をしていないからだったのだ。しかし半世紀の人生を経験してやっとシュルツの言わんとしていることが理解できるようになった。

シュルツはピーナッツに登場する子供たちが「こまった、できない、どうしてなのか」と葛藤する様子を描き、どのように乗り越えるのかをテーマに一貫して表現した作品を生み出してきた。その作品に登場するキャラクターの発言ひとつひとつが奥深くずっしりと考えさせられる言葉である。人生に不必要なものはなかったと彼の人生や作品からも証明されたように思う。もし今苦しい立場で葛藤することがあったとしてもそれが人生に必要であるかもしれないと奮起すれば一歩先が見えてくるのではないだろうか。

チャールズ・シュルツの人生から学ぶことは何か。人生に於いて苦しいことのように思える事でも真っ当に生きていれば後半の人生で大逆転が起こる。私の身近でも子供の頃に裕福な従兄弟たちに馬鹿にされていた兄弟たちが、親から適切な心の持ち方を教えられた事で今は恵まれた人生を築き上げつつあり、人が羨むほどの仕事や家庭に恵まれている。今いじめを受けている子供を持つご父兄にはこのように伝えたい。人に馬鹿にされ卑下をされても人を恨まず優しさの中に強さを持つ生き方を子供と共に考えてほしい。必ず人生の花開く時が来る。必ずである。

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