偉人『百人一首の編纂 藤原定家』
今週月曜の『百人一首の薦め』を受けて小倉百人一首を編纂した藤原定家を取り上げる。定家は歌の家に生まれたサラブレットである。父俊成は物語の情景や心情を歌に反映させる技法を確立した有名な歌人であり、母の美門院加賀は藤原親忠の娘であり歌人であった。生まれながらにして定家は歌を読むことが宿命であった。
歌人であったとはいえ家柄を見れば政治に近い位置にいる立場の生まれである。本人も政治の世界で活躍を望んでいたものの思うように活躍ができず、かなり遅咲きの71歳で正二位中納言までに登り詰めるが更迭され、出家することとなり政治家として功績を残すことはできなかった。しかし歌道を極め盤石なものとし日本の古典の礎を確立したのである。
和歌の美しい世界観を知っているものならば驚くかもしれないが、定家は強情な性格で気性が荒かったようだ。23歳の頃に官職についていながら蝋燭で人を殴打し、父俊成が後鳥羽上皇に謝罪し許しを得たと言われている。
また10代で死と背中合わせの大病を二度経験し肺を患っており、冬には相当息苦しさと風邪の症状に悩んでいたそうである。子供達を日頃から観察している私にとって、病は小さな子供でさえ心身ともに影響を与えていることが手に取るようにわかる。命を脅かすことのない病でさえも子供の気持ちは乱れるものであるから、生死を左右する病に二度かかり健康を害する状況にある場合には乱暴的になることは十分考えられる。もし定家が健康的であったら歌人としてだけではなく政治家としても名を馳せていたかもしれない。
後鳥羽上皇の存在無くして定家の輝かしい歌人としての成果も日本の文学界の発展もなかったであろう。上記の和歌は後鳥羽上皇に送ったものとされている。後鳥羽上皇が鎌倉の北条義時に対して兵を挙げた承久の乱で敗れ、隠岐に流された事に思いを馳せ詠んだ和歌であり、この編纂にあたって最後に後鳥羽上皇とその息子順徳院の和歌を選んだのも定家の配慮であったに違いない。そう考えると歴史の動きと和歌を読んだ人々の思いが興味深く心情を想像して改めて一句一句熟読してみたいとものだ。
今回の結論はやはり家柄というものの大きなうねりの中で誕生した場合にはその道を進まざるを得ない環境に導かれるように思う。そこでどのように自分自身を咲かせるのかを考えることになるのではないだろうか。人はどのような境遇でも生きていける、「置かれた場所で咲きなさい。」という渡辺和子氏の言葉が思い出される。人生は自分次第で道は開かれるように感じる年明けの偉人でした。
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