偉人『黒澤明』
社会人になってニュージーランド人の同僚と映画談義になったことがある。彼は日本の時代劇映画に滅法詳しく、そのジャンルの知識に乏しかった私は話についていけなかった。辛うじて話についていけたのは水戸黄門と大岡越前ぐらいのものである。今から思えば勿体無い時間を過ごしたかと後悔ばかりが先立ってしまうのであるが、彼が私に黒澤明への関心の種を蒔いてくれてことによりこの記事を書けるのだ。時代劇に取りつかれた196cmの大きな彼に久しぶりにe-mailでもしてこの記事の批評でもしてもらおうか。
では本題の黒澤明氏に移ろう。
1910年3月23日東京都品川区、中学校教員の父勇と母シマの8人兄弟の末っ子として誕生。彼が映画の世界に足を踏み入れることとなったのは父勇の影響が少なからずあった。当時映画は教育上好ましくない遊戯としての位置付けであったが、父勇は進んで家族を映画鑑賞へと連れ出し、連続活劇や西部劇を観ていたていたというのだから幼くして映画の世界に踏み込むことが設定されていたのではないかとさえ考えてしまう。
しかし彼はそもそも画家志望であった。しかし美術学校に受験し失敗し、渋々就職を考えていたところに映画の助監督の公募の記事を見つけたのだ。画家の道を歩みたいがそれも叶わず映画なら自分の表現したい絵画の世界を表現し生業に繋がるのではないかと考えた。しかし果たしてそれで本当に良いのかと悩みあぐね父に相談したと所、無類の映画好きだあった父は気の進まぬ息子にこうアドバイスした。「嫌ならいつでも辞めればいい。しかし何事も経験だ。1週間でも1ヶ月でもやってみろ。」その言葉で心が軽くなったのか彼は映画の世界に飛び込んだのである。
今週は『関心を育むコツ』について子育てサジェスチョン記事を書いてきたということに絡めて、映画に関心の無かった黒澤明がどのように『世界中のクロサワ』となり、世界的な映画監督らに影響を及ぼしたのかを考えてみたい。
では彼がなぜ絵にのめり込んでいったのかを生い立ちから見ていくことにしよう。
世界的映画監督になった彼からは想像持つかないのであるが、実は小学校時の学力は遅れている状況にあり学級内でもいじめられては泣くという弱虫的立場にあった。その状況を見兼ねたのが担任教師であった。授業で彼の描いた個性的作品を失笑する同級生を前に担任教師は彼の描いた絵を褒め称えたのである。そのことが彼の自信となり図画的才能を伸ばすことと成績向上につながると同時に、学級長の役も果たし卒業時には主席卒業者として答辞を読んだほどである。しかし進学期微雨中学受験に失敗後はロシア文学を皮切りに日本文学にのめり込み、やがては絵画のみならず文章を書く才能を身につけていくことになる。
この事実を初めて知った際後々映画における視覚的描写を絵画を持って習得し、文章を書くということによって映画のシナリオや作品の流れなどを構築する詩情詩的表現を身につけたに違いない。こう考えると彼の人生は画家への道ではなく、映画監督であったのだとこじつけてしまう。であるならば一見遠回りをしているようであっても映画監督になるための下積みや準備期間としての時間であったのだ。そう考えると人生に近道はなく遠回りであるように思えても実のところは人生の着地点に向かってきたような摩訶不思議な人生観にしまうのだが、彼が逞しく人生を切り開いていく道を取捨選択する技量に溢れていたのも事実である。
もっと深く彼の人生を掘り下げ世界に通ずる人の人生とはこういう事なのかと納得できることや発見がたくさんある。是非ともまた別のアングルで彼の人生を読み解きたいのであるが、その前に機会があればこの本を読んでいただきたいと思う。
では彼の人生を垣間見たところで本題の子育てに関するサジェスチョンを論じてみよう。
子供がある対象に関心がない、持てないということはその対象になるものを見る・知る機会がないということを今週冒頭記事『関心を育むために』(2023年3月20日)に記載したが、世界のクロサワもまた映画業界に関心を持てないままその世界に飛び込んだ。しかしその環境に身を置き日々触れることによりどんどん彼は映画の世界にはまり魅了されていったのである。
彼の場合にははまり込む要素を培っていたからこそ青の大業を成せたのであるが、助監督として仕事をこなしていくうちに自分ならこのようなアングルで撮影する、自分ならこのような詩的描写を行う、自分ならこのスクリーンに映り込む不要なものは完全撤退させるという確固たる信念が沸々と湧き上がってきたに違いない。詰まるところ彼はこれまでに自分自身が身につけたものを総合的に脚本として表現し、助監督や脚本家としての頭角も表し誰に気づかれることなく映画監督になることを準備し決意したという。
こう考えると関心の無い事柄もそれに活かされるものを手中に収めておけば、関心ごとがやがて興味となり自分自身を表現することになるということを彼の人生から読み解くことができる。
映画監督黒澤明も映画業界という世界を知らずにいただけで、業界に入りその世界観の中に自分自身にしか表現できないものやそのスクリーの中にこれまでの技量を表現できる楽しみを見出した途端他の監督とは一線を画した世界観に行き着いた。そして世界的評価を獲得できたのだと考える。
人間は時に思いもよらない場所に足を踏みいえるように思っていることでも、何かに引き寄せられるようにまたは導かれるように自分自身を活かせる機会に恵まれることがある。黒澤明もまたその大きな仕組みのうねりの中に導かれたのではないかと空想の余地を残しておこう。
私のブログには脱線がつきものであるが彼の人生がヘスの法則に当てはまると感じてならない。ジェルマン・アンリ・ヘスといえば高校の化学で学んだ反応熱の総量についてヘスの法則を発表したロシアの科学者であるが、そのヘスの法則の内容の中で経路は違っても辿り着く結果は同じということがどうしても頭から離れないのである。
映画監督が人生の着地点というのであれば、彼の父が映画に連れ立ってくれたこと、絵画を嗜み画家になろうとしていたこととその画家の道が閉ざされたこと、中学受験失敗で自信をなくし文学にのめり込んだことなどそれぞれの異なる経路があった。しかし彼はそれらを一つにまとめる映画監督しての地位を確立し世界的評価を受ける作品を残したのだ。
そう考えると異形をなしていない平凡な私の単なる空想に近い思考も高校の科学を学んだあの瞬間から随分な時間を経てこのブログに着地することができた。こう考えると人生に於いて無駄は無いということになる。
では今回のブログのまとめに入ろう。
黒澤明のようにたとえ関心がわかないことに触れても、子供自身が獲得してきたことを活かすことができるものがあったとするならば、子供が関心が育めないことはなくかえって関心が育みやすく興味にも移行しやすいといえるであろう。小さな接点でもものの見方や捉え方を少し変えてみるだけで無関心だったことが関心に変化する可能性をはらんでいるのだ。そして多くのものに触れたり感じたりする経験をさせることで、好奇心を持つことに繋がりひいては興味を持てるようになるのであるから、関心を持たないという環境に身を置かせることは甚だ勿体無い事である。ご自身の子供が関心を持たない興味がわかないと嘆く前に、親はその種蒔きをしたかどうかを考える必要がある。もしかするとある分野で世界的な人物になる可能性を埋させてしまっているかもしれない。子供がどのような花を咲かせることができるかは、親や周りの人々が与える環境設定に大きく左右されることは間違いなく、その環境設定の是非を意識しておくことが親のやるべきことではないだろうか。
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