偉人『松尾芭蕉』

日本人なら誰もが知っている江戸前期の俳人松尾芭蕉は貧しい生活の中独自の世界観を築いた人物であり、新しい境地を切り開くためにその答えを旅に求め、彼の詠む句には自然と芭蕉の人生や思いが何の違和感も感じずに溶け合いながら一体化している様子を読み取ることができます。

芭蕉の数多くの名作を前にどうしてもかき消すことのできない話をしよう。高校1年の頃恩師が授業で芭蕉が伊賀忍者出身であると発言した。それを受けてクラスメイトの男子が「芭蕉は忍者でござる」と言いながら指を組み友人のズボン目掛けて・・・その先は想像にお任せするが個人的に芭蕉といえば真っ先にこの光景が思い出される。しかし今回は偉業を成し遂げた松尾芭蕉も実際に全国を旅して句を読み続けたことと子供の実体験の重要性を強引に結び付けて自発的に行動することの意味を考えようではないか。

芭蕉は1664年三重県伊賀国で無足人の松尾与左衛門の子供として誕生した。無足人とは農民でありながら苗字と刀を授けられた人物のこと。農民でありながら刀を与えられているとは・・・とても不思議なことである。このことから勝手に推測してみるが伊賀の忍びは徳川家康に仕え、忍術や戦闘能力に長けていたと言われることから忍びであれば刀を持っていても何ら不思議ではない。ある説によると芭蕉は幕府の蜜令を受けて全国各地を情報収集していたのでは無いかと言われている。その所以は2400キロもの道のりを150日で踏破していたという尋常じゃない脚力を持っていたからとも言われている。隠密行動の傍らあの名作の数々を詠んでいたというのであればなんという才能であろう。いや忍びであれば自分自身の気配を消す術を以て自然と一体化することができたであろう、ならば数々の朱雀の作品を生み出すことも容易だったのかもしれぬ。

現代のようにその場所に行かずとも特定の場所を知ることができる手立てのない江戸時代に、臨場感あふれる句を詠むことはその場にいないとできないことであり、芭蕉の作品は人の口伝えによってその場所の光景を詠めるレベルのものでもない。また年老いても旅を続ける脚力は忍びで鍛えた証だろうということにしておきたい自分がいる。ただの俳人というよりは伊賀忍びであった芭蕉の方が私にとってはロマンを感じるからである。

芭蕉が生きていた時代から350年。時が経過し風景が様変わりしても彼の詠む作品を現代人が体現できることは、その作品が時代の変遷とは関わりなく普遍的な自然と一体化しているからなのだ。私も日頃からなるべく四季を感じるよう考えたりするために俳句や短歌を思い出せるようにしているのだが、人の手によって作り出せない自然の中にあるものこそ心に響くと感じている。

今の季節を詠んだ芭蕉の春の作品の中から一句ご紹介しよう。

『しばらくは 花の上なる 月夜かな』

この句は月と桜があれば彼の世界に浸れる句である。ふと頭上を見上げれば咲き誇る桜の花越しに美しく輝く月灯りを想像するだけで胸が熱くなる。ただただその光景が美しいと感じるだけではなく、美しきものの儚さをこの年になると痛感するからだろう。芭蕉が没した年齢を超えてしまった私であるからこそ深く感じ入ることができるのであろうが、それも人生経験がベースになっているから共感できるのである。そう考えると生命力あふれる子供に桜の花の儚さを感じることは難しいかもしれないが、その月夜の照らされて浮かび上がる桜の美しさを見せておくことは可能である。その視覚的経験に人生の年月を重ね心動かされる経験が多ければ多いほど子供達もまた歳を重ねれば先人と同じ境地に至ることができるのだろう。

子供の頃にはとにかく視覚認知できる経験を多くさせることや実際に耳を傾ける、香りを楽しむ、多くの食材や料理を味わう、そして様々なものを手にする経験こそが物事を多角的に捉える感覚が研ぎ澄まされるのだと考える。とりわけ自然の中に身を置くことは人工物から感じること以上の刺激が存在しているのだ。「経験値をあげよ」と松尾芭蕉の多くの句が私たちに語りかけていると感じてならない。

これからも松尾芭蕉の作品を読む瞬間には甲賀の忍びであったかもしれぬと妄想しながら作品を楽しんでみたいものだ。

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