偉人『ジークムント・フロイト』
今年度は教育関係者のご父兄が例年よりも多く先日も教師の日々の仕事とは何かとお互いの思いを吐露しながら有意義な時間を過ごした。そこで話題になったのが教育心理学である。教育心理学とは教育を行う上で子供達の成長や発達の観点から生じる諸問題を心理学の面からサポートし解明しようとする学問のことであるが、多くの親御さんはこのことについて理解する機会は少ないであろう。司会私は親になったらこの教育心理学も学ぶべきではなかろうかと常々思っている。なぜなら人間は他の動物とは違い本能だけで生きることはできず理性んだ上で多くの知識や知性を身に付け社会の一員としての活動を行わなければならない生き物だからだ。しかしその社会的教育の前には保育や家庭教育が必要であるが、昨今は保育時間も限られ家庭での保育がそこそこに保育機関に持ち込まれ、家庭教育もまた保育や幼児教育の現場へ持ち込まれ、それぞれの家庭での家庭教育がなされぬまま社会的教育現場に家庭教育の問題点が持ち込まれるようになっている。というわけで親になる資格を得たら保育とは何か、家庭教育とは何か、社会的教育とは何かを学ぶ機会や施設があってもいいのではないかと思うのだ。
今回はその教育心理学の話の流れをヒントに精神分析学の創始者ジークムント・フロイトについて記事を書いていこうと言うわけである。これから展開される内容は私の勝手な想像と頭の中を掠める断片的内容を瞬時に捉えて何の推敲も無しに書き連ねていくこととする。
このいかにも精神分析学者らしい鋭い眼光の先に自分自身が見透かされているような気がしないでもないが、敢えてその鋭い眼光に挑戦状を送ってみようかと思うのである。きっと彼が存命でこの私の稚拙な論評を読んでいたら酷評の的にされていたであろうが、彼が過去の人物ということに甘んじて論じてみる。
1856年5月6日現在のチェコでユダヤ人で毛織物商人の父ヤーコブ・フロイトとユダヤ人法学者の血を受け継ぐの母アマーリアの長男として誕生した。彼は3歳でオーストリアに転居し8歳でシェークスピアを読み解いてしまい10歳で中等教育を受け、17歳でウィーン大学に入学した。母アマーリアは息子フロイトを神童と考えこの子は偉大な人物になるであろうと確信を持っていた。その後大学で物理学を学んだのちに医学部の生理学研究所に入り、後に脳と心理学を研究することも考えたが不将来性が透明な分野であったため断念し、神経病理学に進み精神分析の世界で活躍することになった。彼の最大の功績は無意識の発見であり精神分析の創始者でもある。
それでは彼の幼少期に目を転じてみよう。
フロイトの精神分析学について語るときユングやアドラーが欠かせない人物ではあるが、彼の幼少期となればやはり母アマーリアの存在が大きな鍵を握る。
フロイトの父は母アマーリアとは三度目の結婚で最初の妻との間に男児が2人いたのである。父はフロイトに対しては普通の父親で折檻することもあったというが、それはごく普通の親としての立ち振る舞いであったのではないかと私は考えている。現代では子供に手をあげることに否定的見解がなされているが19世紀ではごく普通のことであった。また父は母親とは全く異なり子供全てを平等に扱う人物であった。
では母親はどうであろう。調べれば調べるほど目も当てられぬ母親である。フロイトを溺愛し妹弟との扱いに大差をつけ格段なる超愛を注ぎ込んでしまい、その過度な愛情が幼いフロイトをあらぬ方向へと導いてしまった張本人である。こんな有名な話がある。ある日ピアノを習い始めた妹のアンナの練習音がうるさく勉強ができないといったフロイトの言葉を耳を貸した母親はピアノを家から運び出してしまったという。またフロイトには5人の妹と一人の弟がいたが子供部屋を所有していたのはフロイトただ一人であった。何をするにも兄弟を平等に見ていた父に対して、母親兄弟平等という概念はなくフロイトだけが突出した存在で後の子供は皆同じ。母親のアマーリアがなぜフロイトにだけ特別な感情を持ち合わせていたかというと、フロイトにはすぐ下に早世した弟がいた。当時次男を亡くしたばかりの母親は時期を開けずして実弟を亡くしている。その喪失感からフロイトを失いたくないとする歪んだ愛情が増したと考えられている。その上で気がいいということでフロイトに対する期待が大きくなり実際は愛情癒着に近い状況だったに違いない。8歳でシェークスピアを読みこなし文学だけに限らず、ラテン語・ギリシャ語・英語にも優れていた。国を持たないユダヤ人が子供に授けるものは教育という側面もあっため致し方ないことであるが、それを差し引いても大問題である。
フロイトの残した言葉にもその母親からの愛情癒着が窺われる言葉がある。
『母親から特別に気に入られ育った者は一生征服者の感情を持ち、その感情がしばし本当の成功を引き起こす原因になる』
この言葉を見たときフロイト自身は気づいていたのかとギョッとする感情が湧き起こってきた。精神分析学はまだまだ新しい分野の学問で多くの仲間や同僚が様々な定義を繰り返していたのであるが、フロイトはその意見に耳を貸すことができず、真っ向から異議を唱えるならまだしも彼らの意見を自分自身の理論に無理やりいや強引に置き換えて自分自身の研究内容を正当化した。フロイトは自分自身の頑な考え方と感情を自制することができず、あまりの強引さから多くの仲間が彼の元から離れていってしまったのである。いわゆる征服者の感情を持っていたといえよう。改めて前出の彼の言葉の意味を考えると自分自身を深く理解しさすが精神分析学者であると思うのだが、その感情が成功を引き起こすことになると断言していることにまた驚きを隠せない。これが征服者の誇大自己=ナルシシズムなのであろうか。自らを絶大なるものと錯覚し、自己顕示や万能なものとし思い通りにならないときに激しく怒りを示すことを意味しているこの言葉がフロイトにはピッタリである。
私の目から見るとフロイトをそのような方向へみちび浮いたのはやはり母アマーリアの過干渉から生じたものだ。こうなると人間関係も上手くいかず自分自身の一番の持ち味を活かすことができないことにも繋がる。彼の場合ユダヤ人であること、そして時代がナチスの統制下によるものが影を落とした人生であったことも踏まえると何とも理不尽な時代に生まれてきたかと同情の余地はあるのだが、やはり幼少期に母の歪んだ愛情がなければ精神分析学は新たな時代を築いていたのだろうかとも考えてしまう。
ここでショッキングであろう事実をもう一つ記しておこう。フロイト自身は幼児期からいくつかの苦しみを抱えながら成長している。その一つが弟が誕生したときに母を取られることに耐えられず弟の死を願ったことである。この苦しみは晩年も心に突き刺さったままだったようだ。幼い子供が母親の愛情を欲すために弟の死を願うとは歪んだ感情の最たるものである。い現代でも第二子以降の誕生で長子が赤ちゃん返りをすることもあるが、兄弟の死を願うまでに心の歪みを育ててしまったことに気付かないのは親の大きな過ちである。その思いを精神心理学者のフロイト自身が克服に至らなかったのであるから、いかに根深く罪深き思いを子供に抱かせてしまうと大ごとになるかを私たちは知っておかなければならない。
またもう一つ。フロイトは母の愛情を独り占めしたく父に対して鋭い視線や行動を向けることになった。フロイト4歳の頃に父と母が一緒に寝ることを許せず夫婦の寝室のベッドにわざとおしっこをしたのである。父はその行動を嗜めるために折檻をしたのであるが、かえって敵対意識の火種に油を注いでしまい長きに父と息子の関係はうまくいかなかったのである。
偏屈で気難しいフロイトであったが家族を持ってからは精神分析学から多くを学び取ったのであろうか夏の3ヶ月は家族と休暇を過ごしいちご狩りやきのこ狩り釣りに温泉を楽しむなどの時間を過ごしたという。毎朝7時時に起きて床屋を呼んで髭をさらせる風変わりな一面もあったようだが、夜には家族と夕食を取りトランプに興じる父親でもあった。精神分析の仕事をしていたからこそ人生を狂わす程のバランスを欠く事なく生姜ウィ閉じることができたのであろう。彼の学問の研究や分析には賛同できないことも多いが、もし彼がいなければ今日の児童精神医学の発展もなかったであろう。なぜなら末娘のアンナ・フロイトは児童精神医学の道筋を立て父フロイトの後を継承し、現代で欠くことのできない親子関係の道筋を立てたからである。父フロイトの言葉を裏付けるように娘がフロイトに代わり精神心理学が親子の関係の立証となり本当の成功を引き起こすことになった。
フロイトの提唱したものは難解すぎてまた問題がありすぎて読んだ後の殺伐とした感情は否めないが娘アンナ・フロイトの著書を読んでみると親子関係や家庭教育のヒントが見つかると考える。
まとめ。ジークムント・フロイトは母の愛情癒着で人格形成に難を与えられたが、自分自身の精神分析学という学問の創始者としては新しい精神の持ち方を生み出す礎になることができた人物である。人生何が功を要するかわからないがフロイト自身は新しい学問を見つけてそこに邁進する力を持てた人生だったであろう。一人の人間を産み育てるにはやはり親の不勉強は子供の心に大きな影を落としかねない。だからこそ保育や家庭教育、社会的教育の学びとな何であるのかを親は学んでいくべきではないだろうか。
追伸:フロイトの対局にいるアドラーについて話を展開できたらさらにフロイトの考えを知ることができるということで私の気が変わっていなければ、次回はアドラーを取り上げるかもしれない。
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