偉人『人見絹枝』

日本人女性初のオリンピックメダリスト人見絹枝。今回は歩みを進めるという切り口から自分自身の特技を活かしさらに女性の陸上界の発展に貢献した彼女の人生を取り上げ、彼女の24歳という短い駆け抜けた人生から親子の信じ合うことの重要性を考えてみる。

1907年1月1日岡山県御津福浜村の裕福な稲作農家の次女として誕生した。幼少期はとても活発な女の子で男の子と行動を共にすることが多く、川遊びや鬼ごっこをし男児を負かしてしまうほどの俊敏性を兼ね備えていた。小学校に入学してからは体を動かすこと以外にも学業面で優れており、特に国語の成績は群を抜いていたという。

絹枝は農家の娘でありながら高等学校へと進学したわけであるが、当時の農家の娘が進学を果たすなど当時の社会背景からすると異例中の異例である。当時農家の娘を高等学校へ進学させるなど世間的に批判の的を浴びてもおかしくないのであるが、父猪作は娘を師範学校へ進ませて将来は教師の道へと進ませたかった。絹枝自身もまた当初は教師になることを夢見ていたようである。

ある時絹枝が川を堰き止め魚取りに興じていると川遊びをせずに算術の勉強をするように父は嗜めたと言う。このように女性という立場でありながら自分自身の道を切り開いて進むようにサポートしてくれる父の後ろ盾があり、経済的に恵まれていた環境にあったからこそ絹枝は自由に好きなことができた。


ある日彼女が陸上の道へ進むように運命付けられていた依頼が飛び込んでくる。16歳でスポーツの能力の高さを変われ未経験の走り幅跳びで日本記録を出してしまった。当時絹枝は6キロの通学路を通い、また当時の学校教育は新たなる校長の就任で全人教育が施されるようになり、女学生であってもスポーツの対外試合を経験させる教育が推奨され絹枝もテニスに興じることになった。当初父親は学業ではなくスポーツをすることに抵抗があったようであるが、娘の活躍を観戦しようと応援に駆けつけることさえあったという。岡山での女学校生活を終え東京の二階堂体操塾に進学するにあたっては父の反対を受けた。父は頭を使わないスポーツの道へ進むのではなく教師になることを望んだが、それに対して絹枝はスポーツを行う上でもしっかりと考えた戦略を立てていると異論を唱え強引に東京での生活へと踏み出したのである。絹枝はスポーツ的能力を発揮しとうとう三段跳びで世界記録を立て世間の注目を集めたのである。その後体操の実技講師や研修生として働き、やがて大阪毎日新聞運動課に入社し陸上を極めていく。

しかし同時は女性が太ももを出し走ることは端ないとされ、またスポーツは子供を産むことに悪影響が出るなどの批判の目に晒されてしまった。そこで彼女は『どうすれば女性のスポーツが認められるのか、女性がスポーツをすることは素晴らしいことだ』と世に知らしめることができるのかを考える使命と言うべき道を見つけ出したのである。

日本の女性が自由にスポーツを楽しむためにどうすべきなのか・・・彼女は自分自身がオリンピックで結果を出すことで世間が女性のスポーツを認めることになるのではないかと考えたのである。しかしメダルを期待されていた100mでは予想外の予選落ちをし、後のない絹枝は一度も走ったことのない800mにエントリーし銀メダルを獲得した。帰国後はこれまでの批判から手のひらを返したように世間は歓迎ムードであったが、女性のスポーツはまだまだ支援が必要であった。世界的に活躍したにも拘らず国の援助は全く得られなかったのである。

帰国後は講演会や執筆活動で得た資金を海外大会に出る女性選手の旅費や滞在費の一部に当て、それでも賄いきれない資金作りに奔走し自分自身のトレーニングで体を酷使し病に倒れた。病床にありながら家族の面会も断り女子選手の活躍の道筋を立てようというこの活動に身を捧げたものの24歳といい若さで病に勝てず永眠したのである。

では彼女の人生から子育てに活かせることを考えてみよう。

彼女の前出の写真を見ればお分かりだろうが本当に女性なのかと思われる容姿である。その容姿で今もなを男性ではなかったかとの噂も絶えない。また女性が運動なんてみっともないと言われて時代でもあったが、絹枝は大正デモクラシーの波を受けて自分自身の意見が言え、自分はこうしたいんだという行動ができる時代であったこと、良妻賢母が通用する時代ではないという考えを持つ高い立場の男性がいたことなどが功を奏していたと思うが、彼女がここまで有名になったのは両親をはじめとする家族の理解があったといえよう。とりわけ父猪作の娘に対する愛情は彼女が自由に進むことができる最大の理由であった。また母親は当初は裁縫を嗜んで平凡な結婚を望み、練習で色黒になることにものすごく抵抗していたというが娘の活躍を見てその気持ちも薄れていったという。そして人前で一切悔しがることを見せない彼女も姉にはその苦渋を吐露していたという。


彼女が残した言葉に『いくらでも罵れ、私はそれを甘んじて受ける。しかし私の後から生まれてくる若い女子選手や日本の女子競技会には指一つ触れさせない。』というのがある。この強い口調の厳しい言い回しに彼女が受けていた批判が如何に激しいものであったかが窺い知れる。

絹枝にとって矢面に立たされ四面楚歌の状況で批判に打ちのめされても奮起する想いに至れるのは、自分とは何か、自分のすべきことは何かをしっかりと見据えることができるだけの人物であり、その深い想いに立つことができる子供として育てた親の教えがあるからである。沖縄の方言にムンナラーシーという言葉がある。人としての道をどう捉えて進むかというような心得や礼儀作法など多岐にわたる教えのことを指すが、これは親子間や祖父母との関係性で育まれるものである。教えをしっかりと受け取りなさいと言われ育ったことで親子の信頼関係が確立すると思うのであるが、絹枝と父猪作の間にもこの信頼関係の構築は確かのものであっただろうと推測している。

親として誰がなんと言おうと信じるということを実行できるようにするためにも、常にあらゆることを考えながら育てるというバランスを忘れてはならない。換言すると子供を信じ通せるだけの揺るぎのない信頼を持って子供を育てよということである。

実はこの言葉は私が親から言われ続けたことである。「お父さんもお母さんもあなたを信じてる。」と。コールアンドレスポンスのようなこの言葉は私の人生の分岐点で必ず頭を掠めるものであった。あの強烈で強い発言をできるのは強くならざる終えなかった環境があり、その言葉の真意は彼女の選んだ人生が凝縮されている、人見絹代もまた根底には親子間の信頼を持って自分自身の信じる道を歩むことができたからだと思うのである。


今回のまとめ・・・子育てには信じる力が必要不可欠である。『信ずれば成り、憂えれば崩れる』子供を信じることができるだけの選択肢を持ち子供を育てようではないか。



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