偉人『アンリ・マティス』

今日沖縄にとってはとても重要な日であり、鎮魂と平和を願う『慰霊の日』です。心静かに平和を誓う日でありたい。



今週は平和について考える週間ということで平和や戦争に関する活動をしている偉人を考えてみた。パブロ・ルイス・ピカソやフランシスコ・デ・ゴヤ、ピーテル・パウル・ルーベンス・・・彼らを取り上げるにしても生々しい戦争に関する作品や人生を取り上げることになるため慰霊の日の重さを考えると息苦しくなってしまう。よって今回は人生の中で2度の大戦を経験し命を脅かされる大病を患いながらも人生の最後の最後まで希望に燃えていたフランス人画家、色の魔術師アンリ・マティスの人生を取り上げる。

マティスはこのような言葉を残している。

「私が夢見るのは、全ての人の心を癒す良い肘掛け椅子のような芸術である」

その言葉のように彼の作品を見た子供たちの心を掴んで離さない。なぜ彼の作品が純粋な子供たちの心を掴むのか。それは目に飛び込んでくる大胆で色の鮮やかさと子供の無邪気さのようなエネルギーに満ち満ちいるということに尽きるだろう。しかし彼の長きにわたる画家人生は平坦なものではなかった。人生にはまさかの坂があると言われるが、にどの大きな戦争体験と命の危うさと紙一重の大病を患う状況に置かれても自分自身を見失うことがない人生を送った強いひとである。マティスは一見強い意志を全面に出したピカソと比較されがちであるが、彼よりも遥かに精神性を揺るがし自分の力では到底太刀打ち出来ないものと向き合いながらそれでも立ち上がっていく強い心を持った人物である。ピカソ作品のような強烈な印象はないが彼の人生を知れば遥かにピカソを超える強さを秘めている。そんなマティスの精神性はどのように育てられたのかを彼の人生と作品から考えていこうではないか。

彼の代表作品の一つに赤い裸体でダンスを踊る人々を描いた『ダンス』がある。遠近法を完全に無視したベタ塗りの平坦なこの作品は、人物の動きを強調する特徴があり子供たちが幼い頃好んで見ていた作品集である。画集はたくさん揃えていつでも手に取れる所に何かしら置いていたが、マティスの描く大胆でリズミカルな動きを子供たちは好んで同じポーズをよくしていたものだ。笑い話になるのであるがこの作品の真似っこブームが子供たちの間で流行っていた頃、幼稚園のお友達の家でお茶をしていると「ママ、お兄ちゃんたちパンツ1枚になってるよ」と娘が伝えに来た。慌てて2階の子供部屋に向かうと・・・アンリ・マティスのダンスを再現し子供たちはふざけながら大笑いしていた。その首謀者はまさしく誰かは明白で「辛うじてパンツ1枚残しているからセーフだね」と母親たちで大笑いした。子供たちは時に大人の想像を超えるエネルギーを発揮するもので、マティスの持つ力強さと子供たちの強いエネルギーが共鳴をした瞬間であったのだろう。この話には続きがあって決して公共の場で記すことはできない話がある。子供たちがものすごく解放された瞬間を迎えたのであるが、男の子のトホホを垣間見ることができたのはやはりマティスの無邪気さが彼らに影響したのかと思い至る。ご興味のある方は声をかけていただければ男児の成長の一端を知ることができるであろう。


さてマティスの代表作品には赤を多用したものが多い。その赤から出るエネルギーは花火のような力強さや大胆さがある。日常の生活にこれだけ赤が多用されると落ち着かないような気がしないでもないが、彼の作品を真冬の寒い時期に部屋に飾るとこのビビットな赤がアクセントになり寒さを忘れてしまう。

しかしここに行き表現に至った時間はそう長くはない。マティスが色彩の豊かさに気づ貸されたのは南仏のニースででありコリウールの窓から見えた風景に触発され色に目覚めていく。しかしこのような鮮やかな色彩のあふれる作品が第一次世界大戦の足音共に彼の作品に影を落としていく。

長男も次男も友人も知人も戦場に駆り出され戦火に巻き込まれる一方で、マティスは戦禍を逃れ家族と離れ離れになり病気のため一人南フランスのニースで過ごす。それこそ温かな気候と美しい自然に癒されるも彼が描いた作品は黒を多用し戦争を印象としを描いていった。黒を多用し窓が固く閉ざされた作品は、上記の戦争前に描いた色彩豊かなコリウールの同じ窓とは思えない。戦争は人命も人々の日常も文化、芸術あらゆるものを崩壊へと導いてしまうが世界的な芸術家の心も蝕んでいった。精神的に強いマティスでさえも戦争時期の作品の多くは暗闇や孤独を容易に想像させる。

しかし彼の戦争体験はこれで終わりではなかった。70歳の1939年の第二次世界大戦の勃発で2度目の戦争体験である。妻と娘がフランスを占領したドイツ軍に抵抗し捕らえられた。しかしそれでも絵筆を置くことはなくひたすら心の向くまま描いた。72歳で腹部の癌を患い手術を受けるも精力的な活動はできなくなり、車椅子の生活からやがてベッドの上での生活を余儀なくされた。生死を分ける大病をしたにも関わらず彼は室内にいても描けるように家中を花や植物で満たし鳥を300羽飼いベッドで過ごしながらも自然の中にいるような描写を追求した。老いても大病を患っても彼の意欲が減退することはなく、逆に貪欲に新しい境地を開いていった。

マティスの病状は芳しくなく絵を描くことが困難になってからは切り絵に移行している。アシスタントに紙に色を塗ってもらいはさみで切る場合もあれば、紙を思いのまま切りその後色を塗りそれを壁や紙に貼り付けて制作していくようになる。

「私は生き延びて自分流にやれるようになり、作品からは一層喜びが見えるかもしれない」と彼が語れるようになったのは、絵の道に進むことになったきっかけがあまりにも強烈だったからだと考えている。


1869年12月31日フランス北部の流・カトー=カンブレジの裕福な穀物商の家に誕生する。幼少期から学業優秀で父はマティスに法律の道に進むように促し彼もまたその道で生きていこうと考えていた。しかし法科資格試験に合格したものの1889年21歳で盲腸炎になり1年にも及ぶ闘病と療養の生活に入ることとなった。

母は療養生活の慰めになるようにと彼に絵の具箱を与えたのである。彼はそれをきっかけに描くことにのめり込みその絵画の世界に導かれていった。そして晩年このように発言している。「その絵の具箱は自分自身を一種の楽園に送り込むようであった。生まれて初めての自由で平和な世界へ行ったようだった。まるで天国を見たようだった」と。

父の敷いたレールの上を走ってきた彼にとって初めて自由を獲得できた瞬間だったのだろう。自分自身で見つけた道というものが見えた瞬間であり、この道に進みたいと強烈に揺り動かされた瞬間でもあったに違いない。父は当初画家になることには反対していたようだが、子供自身の選んだ道の選択を受け入れることができる両親であったことも幸いした。

もし19世紀の日本での出来事であれば父の意見は絶対的であっただろうが、フランス人の考え方というものがあるかもしれないが、マティスは両親に良識と中庸を重んじる教育がなされていたことと裕福な家庭で育ったことが功を奏したのだろう。考え方や行動が何事にも問われることなく偏ることなく、常にバランスよく物事を捉え生きるという両親が施した教育は、彼にどんなことが起ころうとも状況把握に努め、自分自身の良識という物差しを持って生きていくことの強さを身につけさせた。だからこそ彼は身に起きた艱難辛苦から立ち上がることができたのだ。感情のままに動き様々なことに一喜一憂する子育ての真逆にある教育であるため親は深い考えを持ち理性で子供を教育することが求められる。良識と中庸とはこどもの教育であると同時に親自身も常にそのことが問われるものなのだ。そう考えると子育ていおいて良識と中庸という考え方を教え諭すことは芯の強く優しさを育むことができるのではないだろうか。

それでは最後に彼が人生最後に手がけた礼拝堂を見ながら彼が語ったで文章で今記事を締め括ろう。伝統的な教会の重々しい感じでなく、祈りを捧げる人々の心が明るく優しさに包まれながら前向きになれるような場所であってほしいと願い、どのようなことが起きてもまずは冷静さを持って肩の力を抜き事実を受け止め、その中で何をすべきかを考え、見つけるよう努めて生きていけばいい。シンプルにこの場に何も考えずに身を置くだけでも良いのではないかとさえ感じさせるマティスが持ち続けていた心の透明感あふれる教会である。

何色にも支配されずどんなことが起きようとも自分自身の色を見つけることに人生を費やした芯の強い画家である。


「私の礼拝堂に入る人たちが清められて、背負っている重荷を下ろした時のような気持ちになってもらいたらと思っています。」おおらかで優しいマティスの人となりを表す言葉である。

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