偉人『石川啄木』

今回取り上げる偉人は自らの生活苦や望郷の思いを読んだ歌人 石川啄木である。彼の作品に心奪われたのは中学1年だったような気がする。当時全国各地で学校が荒廃し我が母校ではそのような様子は見られないにも拘らず、先生方の圧倒的威圧の空気感がたまらなく嫌だった。厳しい服装や持ち物検査に時間を割かれるくらいなら図書館で本を読んでいたい、音楽教室で友とたわいの無い会話や音楽を奏でていたいと幾度思い考えていたことであろう。そのようなタイミングで学んだのが啄木の一握の砂の煙にある『不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸われし 十五の心』である。煩わしい世界から逃れたいと感じていた思いを彼の短歌が吹き飛ばし何事もなかったような清涼感を味わうことができた。この時に感じた啄木の感性の凄さを目の当たりにし、感性とは何であろうかと考えさせられたのである。もう一つ思い出すのが尾崎豊氏の『十五の夜』である。彼の大人に対する計り知れない反発や抵抗にはなかなか共感できないが感性とは少し形の違う感受性の鋭さを感じる。感性と感受性の違いも考えながら今回は石川啄木の世界観から子供が獲得すると良いとされる感性、感受性とは何かを考えてみたい。

盗んだバイクで走り出す15の夜はやはりまずいが、尾崎豊の魂の叫びのような歌詞や美しいメロディライン、そして独創性は素晴らしいものがありガラスのような繊細さからは思春期の子供達の心を代弁するものを感じてならない。来週は尾崎豊氏を取り上げる。その記事も併せて読んでいただければ感性と感受性の違いを捉えることができるであろう。

さて石川啄木こと一(はじめ)は1886年2月20日岩手県にて曹洞州の僧侶・父一禎と母カツの長男として誕生する。兄弟は姉2人と妹1人の4人兄弟であるが幼少期は体が弱くまた一人息子として両親に溺愛されて育つ。その溺愛ぶりのエピソードが残されている。ある晩どうしても饅頭を食したくなった啄木が寝床についた母に饅頭が食べたいと起こし、饅頭が出来上がるまでに時間がかかり食が失せたとその饅頭を母に投げつけたという。そんな横柄な態度をとった啄木を許し啄木の言いなりに真夜中に饅頭を作る母親も母親である。また嫁と母を知人宅に置き去りにし歌人としての成功を夢見て一人東京に旅立つなど後先考えないダメっぷりである。しかし一方で母を思う心情を読んだ句がある。『たはむれに 母を背負て そのあまり 軽きに泣きて 三歩歩まず』・・・ふざけて母を背負ってみたものの年老いた母のあまりの軽さに涙が溢れて三歩も歩くことができないという内容の句は、陽気さから切なさに着地する啄木特有の世界観が描かれている。冒頭の母に対するエピソードから考えると想像がつかない。また妹光子も兄は母を背負うなどしていないとと否定している。実際に母を啄木が背負っていたかは分からないが、彼の中にはその短歌を詠む感性が育っていたのは確かである。ではその感性はどこに起因しているのだろうか。それはやはりトホホな溺愛ぶりであっても親の愛情からである。

では感性や感受性とはなんでろうか。

感性も感受性も感覚器官が外界から受けた刺激によって感じる受信である。しかしその両者には大きな違いがある。感性は刺激を受けた感情を理性に変える力を持ち、感受性は同じように受けた感情を情緒に落とし込み感情が強く出るということである。啄木は見たもの感じたままを理性で短歌に落とし込む才能があり、尾崎豊氏は感情に落とし込んで表現したという違いがある。しかしその両者には共通した受信力の高さがあるのはいうまでもない。

『働けど 働けど猶 わが生活 楽にならざり じっと手を見る』・・・自分の才能を信じ込み歌壇での活躍を夢見るも思い描く成功には至らず、また不幸は重なり父の僧侶罷免で父の経済力に頼っていた啄木は一家を支えるために働くことになり各地を転々と流転することになった。借金した金銭で読めもしない洋書を購入したり女遊びに使うなど短歌の世界と実生活とのズレがあったのも若気の至りで片付けてはならないが、自負心の崩壊で傷つき生活に疲れた気持ちを正直に吐露した啄木の感性である。

また深く故郷を慕う歌人であり、故郷の渋民村を追われた啄木は帰る場所もなくますます望郷の念を募らせた。『ふるさとの 訛り懐かし 停車場の 人混みの中に そを聴きに行く』・・・帰りたくても帰ることができない故郷に思いを馳せ、大きな東京駅の停車場に通い多くの人の声の中から国訛りを探しに出かけていたという。何不自由ない故郷での生活や父からの援助で好き勝手をしていた過去の生活と現状の借金苦や生活苦との比較で第三者的俯瞰でこの句を読んだように感じてならない。なぜなら予想以上に借金の金額を得ることができたと文章に残しているからである。そんなダメっぷりな一面を覗かせる啄木のエピソードに触れる度彼の才能を感じるのであるが、晩年の肺結核に罹患してからはやっと感性から感受性に移行した啄木を知ることができる。ではそのことを述べていく。


『かにかくに 渋民村は 恋しかり おもひでの山  おもひでの川』・・・幸せな幼年期を過ごした記憶の残る特別な故郷の渋民村の美しい風景を思い出し、その風土を懐かしみ死の間際まで心の拠り所であった故郷を読んだ句である。しかし惨めな漂白者と自分自身を蔑み、故郷を失った悲しみと故郷への愛着を忘れることができなかった一面もある。病を推して郷愁を思う心がとめどなく湧きあふれて「故郷の自然は我が親友である」とも語っている。故郷を失うという挫折は大きく計り知れない挫折と苦悩の連続を招いた。そして一家離散、死を招く結核に罹患した啄木は社会的に困窮する生活困窮者に目を向け生活短歌を読むようになる。そして病が重くなる中見舞いに訪れた妹光子に啄木は涙をこぼしながら「もう渋民村の話しはよそう。たまらなくなる。でも死ぬ時は渋民村がいい。」と話したそうである。以前読んだ脳科学の本で人間は死を間際にして脳裏に浮かぶものは自分自身の地位や名誉、財産でもなければフォロワー数や預金額でもなく映像が思い浮かぶという。脳は感じたことを映像としてメモリーしそれを映像として思い浮かべるのだという。そしてその映像は心動かされ感じたことでしか映像化できないのだという。感性や感受性を磨くということは心を動かすことであり、思い出を映像化できるのはどのくらい心を動かす経験をしたかによるということだ。そして脳が活用する思い出の映像は様々なことに結びつけやすくなり発想を強化する能力もあるという。人生を豊かに生きるためにはいかに心を動かすことができる感性を磨くかに深く関係している。


私は子供の頃から常に冷静にそして厳しく物事を判断する癖があり、それは育ちと深い関係があると自覚している。しかし子供を産んでから空を見て綺麗だね、夕陽が沈むのを見て寂しくなっちゃうよと泣く子供の感性にハッとさせられたのである。そしてその子供の姿にほろっと涙を流す自分は人に対して心動かす感性があったのかと気付かされもした。自然界に目を向けて美しい寂しいと心を動かす感性は欠けていたようであるが、感受性の豊かな子供に心動かされる感性は育っていたようだ。感性や感受性を持たぬまま生きる人生よりも少しでもその感性や感受性を持った人生の方が遥かに豊かだと気づいたのである。子供の豊かな感性や感受性に少しでも近づきたいと心動かされたことは子供から得た大きな感性の獲得チャンスだった。そしてそのことに気付けたことが感性を獲得した瞬間であったとも感じている。

石川啄木の短歌を目にする度に貧困と病と漂白にあった壮絶な人生の断片を感じつつ、彼の感性が感受性と一体化した瞬間に立ち会うことができた喜びを感じる。啄木の作品は何処か満たされないものに包まれている感が否めないが、人間は相対比較の中でバランスを取る脳の作りになっているため彼の作品を味わうのもまた感性と感受性の刺激を味わうことになる。


今日のまとめ、子供の人生を豊かなものにしようと思うのであれば心動かすことができる体験を多くさせ感性を磨き、その感性が感情と相まって素直な思いや表現が溢れ出し、滲み出るような立ち居振る舞いのできる子供に成長させて欲しいと考える。


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