偉人『緒方貞子』
小さな巨人と言われた日本が誇る逞しい女性がこの世を去ったてから早5年、今回は世界の平和構築に貢献した緒方貞子氏を取り上げる。彼女は日本人初の国連難民高等弁務官として3期10年の任務を果たし、人道支援に尽力し世界的な人権のあり方をガラッと変えた人物であり、また日本人として常に日本の在り方や世界での日本の立ち位置を案じ続けた人物でもある。今回は彼女がなぜ厳しい環境に置かれた人々を助けることができのか、あらゆる場面で前例を覆し批判にも動じず弱き人々のために決断をすることができたのかを彼女の生い立ちから考えてみよう。
1927年9月16日東京都麻布にて外交官の父中村豊一と母恒子の長女として誕生。曽祖父は第29代内閣総理大臣犬養毅で、彼女に貞子という名前を命名したのは曽祖父の犬養毅であった。幼い頃の貞子はとにかく好奇心旺盛で魚売りが家の前を通りかかると家から一目散に飛び出し、魚売りの担ぐ桶の中の魚をじっと覗き込み魚の知識を尋ね込んでいたという。また祭りの日には縁日の出店を端から端まで一軒一軒全て見て回らなくては気が済まない少女だったそうだ。好奇心を抑えることができず自身が納得いくまで行動する少女だったのだ。
私が彼女の生い立ちで注目したのが、彼女の好奇心の中心であったじっくりと見る、気が済むまで物事を見通そうとする行動である。人間は感覚行動の中で最も高い比重を占めるのが視覚であるが、その視覚認知の質というものは人それぞれである。パッと見て終わる者、見ているようで見ていない者、一つのことしか見ていない者、全体を見ている者、目に映るものを見ながら思考を巡らせている者と見ることと一言で言っても何をどう見ているのか、またそこに考え感じていることを付加しているのかには大きな差がある。乳児期に原始反射を十分活用して視覚を鍛えることは十分実行できるが、そこに思考力と感受性を付加するには親御さんの思考と行動が大きく影響をする。1年以上前にハイソサエティーな親御さんと少しだけ時間を共にしたのであるが、余りにも子供を育てるということの意識の希薄さに落胆したことがあり、親が子供を育てる上で子供の幸せとは何かを子供の目線に立ち考えを巡らせ、学ぶ機会を自ら求めて行動すれば子供の成長は無限大に広がるものだが・・・と口惜しくも感じたことを緒方貞子氏の人生を紐解くにあたり浮かんでは消える。おそらく緒方貞子の家柄は名門であるが家柄というよりも物事を考えて行動するというその家人の流れが脈々と受け継がれてきたものであろうと確信している。やはり育った環境というものが子供の思考や行動を大きく左右することを心に留め以下の内容を読んでほしいものだ。
緒方貞子は幼い頃外交官である父の仕事の関係でアメリカ・サンフランシスコ、中国・広東省、香港と移り住み、小学校5年生で日本に帰国し聖心女子学園に転入した。また1932年5月15日貞子4歳の頃、戦争を回避したかった曽祖父犬養毅が青年将校らによって銃殺され日本は太平洋戦争へと舵を切った。貞子は曽祖父の死に直面しアメリカで仲良く遊んでいた友人の国が敵国となり、心痛めながら戦時下を過ごしなぜそのような結果になってしまったのかと星を見上げながら幼心を痛めていたという。彼女が大学の論文に満州事変を扱ったのも当事者のひ孫という立場で世界を牽引すべき方法を模索してのことだったのではないだろうか。彼女の生い立ちや経歴を考えると別格な家柄と世界で活躍する親族も多かったことも彼女が世界的活躍することができた理由かもしれない。そして彼女が経験した戦前、戦中、戦後の異質な時代が彼女の意志を強くし国際政治学者、国連難民高等弁務官など世界的な活躍の場に導くことになったともいえよう。
彼女が要職について最初に直面したのがクルド人難民問題であった。人の命が脅かされているのにも拘らず自国に留まっているため難民として認められず支援も受けられない人々の救済保護、また旧ユーゴスラビア紛争でもまた厳しい現実を突きつけられつつ苦渋の決断を自ら下した。支援物資を命がけで空輸し撃墜されることを招いてしまった時の彼女の思いは如何許りであっただろう。想像し得ない厳しい状況の中難しい決断に迫られる経験を日々繰り返しすことは仕事とはいえ毎日がこの状況では気が休まることはなかったであろう。彼女は常に現場に足を運び、常に現場の声に耳を傾け人々を必ず救うという使命感のもと仕事を実行してきた。しかし彼女のこのような行動を考えるとふと我が頭に思い浮かぶのが彼女の曽祖父犬養毅の姿勢である。
曽祖父の犬養毅は邸宅を警備していた憲兵に逃げるように促された。がしかし犬飼は若き青年将校が押し入ってきた時、「話せばわかる」と別間に通し、三発被弾しながらも「今の若者を読んでこい。話して聞かせることがある。」と言い、また家族には「九発のうち三つしか当たらんようじゃ兵隊の訓練はダメだ。」とも語ったという。押し入る前に逃げるよう促された犬養毅は逃げることを拒んだ上で異論を唱える若き将校と向き合う覚悟をしていた。まず話を聞こうとする姿勢はひ孫の緒方貞子がしっかり受け継いでいた。ひ孫として国際政治学者として曽祖父の生き方を真剣に見つめていたことであろう。だからこそ彼女は苦しみの中にいる人々の意見に耳を貸し、現場で働く部下の意見を信じ多くのことを決断するに至ったのであろう。今まさに命の危機に晒されている人々を見逃すことができないのは、命をかけた政治を実行しようとしていた曽祖父犬養毅の生き方も彼女の心情の中に影響していると感じてならない。
しかしそのことだけではないように感じる。では彼女は何を心の糧にして世界の潮流を変える仕事に邁進することができたのかをもう一つの側面を考えてみよう。
彼女をより強くし世界を変える仕事ができた理由は進学した聖心女子学校の初代学長のマザー・エリザベス・ブリットに影響を受けているであろう。緒方貞子はこのように語っている。「マザーはこれからの女性がどうあるべきか、自分でものを考え、人々のために行動する女性の育成を明確なヴィジョンをお持ちで、私も大きな影響を受けました。」また「超我と言う言葉に出会いその崇高な精神に心打たれ奉仕の場が大学から世界へと広がり、人生の方向づけとなった。」とも語っている。
マザーブリットは学生が共に協議しながら目的を達成させることに重きを置き、仲間の話をよく聞き相談し判断して実践することを指導した。緒方貞子が危険を顧みず砲弾が飛び交う現場に赴き、自分自身の目で見て判断し実行した国連難民高等弁務官として尊敬に値する仕事を成し得たのもこの聖心時代の教えが心に思考に刻み込まれていてのことであろう。このようなことを考えると現代の教育現場とは大きな違いがあるように感じる。本来の教育とは自分とは何かをしっかりと考え、自分は何ができるのか、どのように生きていくのか、どのように社会貢献ができるのかを教え続けるべきではないだろうかと身につまされる。緒方貞子氏が世界から称賛を浴び日本女性であったのは、生まれ家柄や身に起こった様々な経験、そして凛として生きていく生き方を学んだ教育にある。
緒方貞子という人物は現場の声をよく聞き、ありとあらゆることを判断し緻密な計画をたて実行する。そしてその決断がもたらしたものには自分自身の責任として引き受ける潔さを持ち、強いリーダーシップで問題解決に取り組んだ小さな巨人と世界から評価を受けた緒方貞子という人物は、平和への想いを強く熱く心に刻んでそれを切に望んだ強き偉人である。彼女の人生の根底に一貫して流れていたのは『自身の目で見る』ということに他ならない。見てしまったもにには徹底的に向き合うというその意気込みが私たち親にも必要なのだ。子供の成長の中に親として見て見ぬふりをしたくなっても、しっかりと向き合い学べることは学び、実践できる全てのことをやり抜いたときに必ず結果はついてくる。小さな巨人と言われる日本人が、日本の女性が誇れる緒方貞子氏から私たち親が学べることとはこのようなことではないだろうか。
最後に彼女が残した言葉で締めくくろう。
『制度や法よりも前にまずは人間を大事にしなければならない。耐えられない状況に人間を放置しておくということに どうして耐えられるでしょうか。そうした感覚をヒューマニズムと呼ぶのならそれはそれで一向に構いません。でもそんな大それたものではない。人間としての普通の感覚では無いのではないでしょうか。見てしまったからには何かをしないとならないでしょう。したくなるでしょう。理屈ではないのです。自分に何ができるのか、できることには限りがあるけれどできることから始めまよう。』
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