偉人『四条天皇』

今回取り上げるのは自分自身の悪ふざけにより命を落とした12歳の四条天皇である。四条天皇を知っている方は多くないであろう。初代の神武天皇から数えて87代目の天皇で1231年3月17日に父後堀河上皇、母藤原家一族の中宮・九条樽子で二人の第一皇子として生まれ、2歳前に即位した幼い天皇であった。あまりにも幼いがために父の後堀河上皇が院政を行なっていたが、即位した年に母の藻壁門院、翌年父後堀河上皇が崩御した。そのため外祖父九条道家とその舅西園寺公経が政務を執り行った。母方の九条家は代々摂政や関白を排出した上流階級の家柄であり、四条天皇を表向きに立て九条家は政治を取り仕切っていたのである。

1242年新年の挨拶に来る公卿や女官を転倒させ、その様子を楽しんでしまおうと12歳の若き四条天皇が御所の廊下に滑石を敷いた。しかし日々いたずらを仕掛けて楽しんでいた四条天皇のいたずらに易々と引っかかってしまう大人はおらず、痺れを切らした四条天皇は物陰から出てきて自らその滑石を誤って踏み転倒し打ちどころが悪く崩御した。歴代の天皇の中でも間抜けで愚かな人物として捉えれらているが、12歳という幼い行動であるから仕方がない。それはあまりにも彼の年齢を考慮していない見方であり残念なことである。

四条天皇は幼くして両親を亡くし周りには同年齢の子供もなく、常に大人に囲まれた環境に身を置いていたのであるから子供同士の中で育まれる小さないたずらを行う機会もなく、刺激の強いいたずらを大人にかけてしまう方向へと進んでいったのではないだろうか。

また子供でありながら天皇という立場もあり四条天皇のいたずらを諫める叱る人物がおらず、いたずらもエスカレートしやりたい放題であった記録が残されている。おそらく鎌倉時代であろうと現代であろうと子供の本質は変わらず、ことの良し悪しを理解することや理性で物事を捉えることなどを教える大人の存在が必要不可欠である。今も昔も親や大人の目の届かないところで色々な事に挑んでいくのが子供であるため四条天皇にもしっかりとした人格形成のための教育と帝王学を教え込む養育係が必要であったと考える。なぜそう思うのか、これは現在の天皇陛下のご養育係であった浜尾実元東宮侍従の養育記録を読んだことがあるからだ。

その濱尾氏の言葉として「褒めるときはしっかりと褒め、叱るときは厳しく叱るという姿勢で殿下の躾に励みました。」そ記されていた。「いけませんと何度申し上げても殿下がお聞きにならないときには、体で覚えていただくための強行手段を取らざるをえません。お仕置きです。お尻を叩いたり、廊下にお出ししたり、庭にお立たせしたり、暗くしたお部屋にお閉じ込めしたり・・・普通の家庭でやっているお仕置きと同じです。」「オーちゃん、ごめんささーい」という殿下のか細い泣き声だけは今でも耳の、いや心の奥深く刻み込まれているのです。」と。

将来天皇となられる方をこのように教育することはどんなに勇気の言ったことであろうかと思う反面、子供の本質や一人の人間としての人格形成をしっかりと行うということを考えていなければ全くもってそのような行動をとることはできない。子供とは何か、教育とは何か、帝王学とは何かを理解していなければ到底できない仕事であり、将来天皇になるものへの帝王学を身に付けさせる御養育係という職であろう。

もし四条天皇に浜尾実氏のような御養育係がいればいたずらをエスカレートさせることも命を落とすこともなかったであろう。子供はある時期おふざけをたくさんすることでユーモアの獲得をする時期がある。しかしそのおふざけを阻止すると子供が自分自身を表現することや人に笑いを齎すユニークさを伝えることができず、心の中にモヤモヤを抱えさせてしまう。よってある程度のおふざけを容認しそのおふざけをもって人に喜びを与えることへベクトルを向けさせることが重要である。その子供の発達特徴を押さえた上でことの良し悪しを躾として導いていくことができれば、人格者として四条天皇は天皇の地位を全うしたのではないだろうかと考える。四条天皇は自らの稚拙ないたずらにより命を落とし、天皇の継承をめぐり深刻な政治空白ができ国の政に大きな影を落としてしまった。


四条天皇から学ぶことは何かということ、それは専任の優れた御養育係をつけることであり、我々平民であっても親がしっかりとした躾をしていけば明らかなる道を進み、人生を全うすることができるということである。

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