偉人『高峰譲吉 日本の将来を見つめて』

前回2024年4月5日偉人『高峰譲吉 幼少期編』を記したが、今回は彼の科学者としての一面と人格者としての彼の考え方、そして日本に残したものとは何かを考えてみたい。

高峰譲吉はもともと官僚として海外留学や視察を通して英国をはじめとする近代国家の発展を知り、科学者として日本に尽力することを自らの使命とし、日本の農業のために人造肥料会社を起業、また日本の醸造技術をもってウイスキーを発明した発明家であり、世界的な医学の発展に尽力した研究者、自分自身の生み出した発明により職を奪われ攻撃をしてきた人物をも雇う慈善家そして日米の架け橋になろうと尽力した無冠の民間大使である。

日本で人造肥料会社を立ち上げた一方で譲吉は日本酒の製造に使用する米麹を使用したウイスキー作りに着手する。1889年私設の誓約書で研究した技術を米国へ出願したところ麹による酒精製造特許が成立した。そして妻キャロラインの母メアリーの援助によりビジネス化を図る。義母メアリーの援助によりウイスキーの原産地のウイスキー・トラスト社からの誘いを受けアメリカに移住し1891年に『高峰発酵素会社』を設立。農商時代の後輩清水鐡吉を呼び寄せウイスキー作りに着手する。

譲吉が発明した方法は、これまでの麦を6か月かけて発酵させたウイスキー作りとは異なり、米麹菌と馬の餌にしかならない麦の皮のフスマを発酵させ短時間・低コストの画期的なウイスキー作りを行った。この作り方はこれまでのウイスキー作りを根底から揺るがしひっくり返してしまったため、失職したモルト製造業社(麦芽を生産する)の猛反発に遭い危害を加えられることもあり、妻キャロラインが「ここはアメリカです。日本のような健常の心は通じません。戦う時に戦わなければ帰って信頼を失う」と助言され、その場で危害を加えたモルト職人らを柔術で投げ飛ばし彼らが持っていたナイフを取り上げたという逸話も残っている。しかし自分自身が生み出したウイスキーを飲んで褒め称えてくれるアメリカ人もいれば、危害を加える人物がいることに心を痛め尚且つそれが科学という新しい時代の流れだと割り切ることはできずにいたという。そこで彼がとった行動がサムライらしいのである。この危害を加えた人物らを以前のモルト職人時の給与よりも高い値段で雇ってもらう交渉を醸造会社に行なったという。ここで思い出して欲しいのだが、前回譲吉の父精一が米の年貢が納めきれずに苦悩していた農民に年貢米の代わりに硝石を年貢として納められるよう藩に掛け合った事実である。息子の譲吉も父と似た行動をとっており、偉人の家系を辿っていくと似たような行動が継承されていることが多い。私はこれをその家系の流れとしてみているのであるが、慈愛の気持ちは良い家の流れを作ることが多いと自分なりに考えており、私も子供自身にその流れを流すべきとして実行している日々である。この摩訶不思議で非科学的ことであるが過去の歴史を紐解くとその流れは偉人の家系には必ず存在し、その多くが自分自身のため家のためではなく、損得勘定なしの人のため、社会のため、国のためというような大きな志を持つているところに多く存在しているのだ。譲吉はまさしくその家の流れを汲んで道を歩んでいると言えるだろう。純粋な気持ちがさまざまな結実を果たし、それが日本の農業や世界の医学進歩をもたらしたと言える。


さて話をウィスキー作りに戻そう。譲吉のウイスキー作りに異議を唱えていたのはモルト職人だけではない。麦芽で作るウイスキー作り投資していた人物らも多く、その人物らが譲吉の会社をなんとかしようと話し合いを重ねていたことがわかっている。譲吉がウイスキーの大量生産を始めたその日に工場から不審火が上がり新しい工場が全消失した。そして間をおかず譲吉は大病し一時期厳しい状況に置かれウイスキー事業は立ち行かなくなる。一連のモルト製造者からの反発と不審火による火災で大損害を受け窮地に陥ったかに見えたが、そこで譲吉は麹菌の可能性に気づくのである。

麹菌の強力な酵素が胃袋で働き食べ物と同時に服用すれば澱粉の消化を助けるに違いないと製薬会社のパーク・デイヴィス社に話を持ちかけ、実証実験の後1895年医薬品として発売されることとなった。その効果と粉末胃腸薬である扱いやすさから世界的に普及しタカヂアスターゼの名前で現在も使用されている。この発明で譲吉は科学実業家としての知名度を上げたのだ。ピンチはチャンスということだ。

1897年アメリカ・ニューヨークの小さは半地下の研究所でタカヂアスターゼの改良を行なっていた頃、パーク・デイヴィス社から共同研究を提案される。当時動物の副腎に止血の効果があることが19世紀の終わりに解ってはいたが、その研究は大変難しく長年多くの研究者が先を争い研究してきたが誰一人そのアドレナリンの抽出と結晶化を実現できないでいた。譲吉は自らの力では成し遂げられないと判断し、東京大学の24歳という若さ漲る上中啓三を助手として雇い二人で副腎を擦り潰しホルモンを研究し、真摯な実験研究の結果1900年7月21日アドレナリンを抽出し結晶化に成功し、1901年アドレナリンの特許権を得た。この成功で今でも世界中で心臓停止や気管支喘息の発作時の血圧上昇作用や止血作用があるため手術を受ける患者の生存率が飛躍的に上がり今も使用されている。アドレナリン無くして医学なしと言われるほどの発見であり、世界的な医学への貢献を日本人が成し得たことは誇るべきことである。

タカヂアスターゼとアドレナリンの医薬品開発は高峰譲吉と上中啓三、パーク・デイヴィス社の三者によって成し遂げられた。そしてその独占販売権を買いたいというパーク・デイヴィス会社に対し自ら発明したものが世界の人々に役立つのならと受け入れたが、日本に於ける販売権だけは日本の会社が担うべきだとして除外を条件につけたのである。当初は日本だけ除外することに反対をしていたパーク・デイヴィス会社も譲吉の熱意に負けその条件を受け入れている。もしその条件が受け入れられていなければ日本での第一三共株式会社(前身の三共株式会社)は存在しなかったであろう。この譲吉が発明したタカヂアスターゼの日本発売を担ったのが、塩原又策という三共を起こした人物である。この塩原の申し出を喜び譲吉は幼少期に体験した泣きの一揆の光景を語り塩原の手を握りこのような言葉を送っている。

「塩原君、私はね、その時以来(泣きの一揆を見て以来)医者になることを諦め科学者になることを決意したのです。私の発明するものがわずかでもいい、全ての人に役立つものであって欲しいと思い続けて、ここまでやってきたと考える。又これからも歩いていきたいと願っています。そして今幸にして医学に少しでも貢献できたことを喜ばしいことだと思っております。そして日本で私の発明品を普及するために努力してくださっている君に心からお礼を申し上げたい。」と述べている。

この言葉からも分かるように高峰譲吉という人物は自分自身の突き詰めるべきものを一つに絞らず、大きな視点で物事を捉え、私利私欲のためではなく日本という国の将来のことを気にかけて行動した人物である。そして彼は科学実業家としての成功を収めたがそこに満足することなく次の目標として世界での日本の地位向上を見定めていた。1913年日本の志のある科学者のために自らが研究し、欧米州の模倣を捨て独創的な研究ができるようにと呼びかけをし、政府からの出資と財界からの寄付で1917年理化学研究所が設置された。指導者としての一面を覗かせながらも彼は広い視野で物事を見つめ見通し先々を読んでいた人物でもある。

100年以上も前に発明された三大医薬品がある。それはタカヂアスターゼ、アドレナリン、そしてアスピリンである。このうちの2つが高峰譲吉の手によって生み出され世界的に多くの人々を救ってきたと同時に特許を世界各国でいち早く取り、知的財産としてビジネスに結びつけてきた手腕の持ち主でもある。また高峰譲吉が日本にもたらしたものは今でも根付きその恩恵を受けていることも日本人として忘れてはならない。特に医療従事者はである。ベンチャー企業家としての先駆者として専門家の間では有名であるが、日本における知名度はそれほどでもない。しかし今こそ彼にスポットを当てるべき時がやってきたのではないだろうか。

これからの時代を担う子供たちにとって何が大事かといえばやはり自分自身が打ち込めるものを見つけ、それを糧にすることができるような人物となり、さらに得たものを多くのところに還元し、知的財産としての経済的ものを得て更に前進し得るだけの力を身につけて欲しいと考える。


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