偉人『岡本かの子』

2週続いた岡本太郎からバトンを渡されるのはやはりこの人しかいない、母の岡本かの子である。では彼女のどこを切り取ろうか・・・・川端康成が誉めに褒めちぎった文学的耽美な表現についてか、恋愛体質の奔放的生き方か、狂気に満ちた精神的不安定さか、お嬢さとして育った幼少期か、はたまた息子岡本太郎との関係性に迫ろうか悩ましいところである。今回は彼女が生きるためにもがき苦しみながらも自分自身に正直で、親はこうあるべき、子供はこうあるべき、家族はこうでなければならないということに固執せず自由に生きた彼女の独特な人生から何かを掴み取りたいものだ。

1889年3月1日川崎市高津区の豪商大貫家に誕生する。岡本かの子は幼い頃から虚弱体質で頚部リンパ節結核を患い、両親から離れた別邸で養育母によって育てられた。養育母からは「ひーさま、あなたは特別なお方なのですよ」と言われ続けて育ったそうである。そしてその療育母から源氏物語をはじめとする文学的手ほどきを受けて育ち、成長と共に漢文短歌と文学基礎を積んでいった。謂わゆる良い所のお嬢様でありながら健康面と愛情面に少なからず問題を抱えて育ち、自分自身のことをまず優先しなければならない環境で育った。そして若くし結婚し子供を設けたが、その良きところのお嬢様は家事裁縫は全くできず裕福な育ちが影響し見に纏う服に湯水の如くお金を使う彼女を岡本家は受け入れられず、嫁失格の烙印を押されたのである。彼女が生まれた初めて批判の矢面に立たされたのはこの時である。その後夫の不貞や経済的問題、社会からの冷酷なまでの痛烈批判を受け、追い打ちをかけるように兄や母、子供の不幸が重なり心を病んでしまった。そして自分自身のバランスを取るために文学に熱中し若き男性との関係にのめり込んでいった。

岡本かの子は俗世間的には破天荒な奇人としての印象が強い人物である。キラキラとしたものや華やかな世界や物にに憧れ、厚化粧し衣装道楽を絵に描いたような派手に飾り立てた自分に酔いしれ、世間が自分を愛してくれないと阿修羅のように一日中泣き通すという幼子のような一面を持ち合わせていた。その反面彼女の綴り出す文学センスは夏目漱石や芥川龍之介と並び称される文人であると評価された人物でもある。子供よりも子供染みた、少女のままのような大人になれない女性であったとも言われ、母親像というものから大きく逸脱した人間であったことは間違いない。しかし最初からそうではなく彼女は母であろうとした瞬間もあったのだ。

「かの子かの子はや泣きやめて 淋しげに添ひ臥す雛に 子守唄せよ」

この母になる決意を感じさせるかの子の歌は一人の若き女性が母になろうとする純真な思いとと我が子太郎への愛の証だったと言えるだろう。そんな彼女がなぜ家族との生活の中に愛人といえる男性を同居させ、我が子太郎にその姿を見せたのか首を傾げるしかない。しかし首を傾げるというのはやはり母親の立場でものを見ているからであり、彼女の立場でものを見ると全く別のものが見えるのである。人一倍自分を愛してほしいと強烈な煩悩とどうにか母になろうとする一面と夫の不貞に耐え忍ぶ倫理観が彼女を徐々に精神疾患へ追い込んでしまった。最初から狂気乱舞した女性ではなかったのである。

奇妙な家族と愛人の同居生活が始まったのも実は愛情ゆえの嫉妬からである。彼女の才能に惚れ込んで訪れた早稲田大学生の堀切茂雄の下宿先に実妹が来ていたことに危機感を覚え、妻を狂気追い込んだと悔いていた夫に愛人との同居を認めさせてしまったのである。推測でしかないが、親と同居し自分が受けてこなかった親の愛情を一心に受けた妹に対しての妬み嫉みが湧き起こり、自分自身に愛情を示していた堀切茂雄までも実妹に奪われるのではないかと考えての行動で奇妙な同居生活に至ったのだろう。

彼女は病気が原因で両親とは離れて暮らし親の愛情に枯渇していたのだと思う。やはり幼い頃はちょっとした具合が悪い病でも心細く母親に傍らにいて欲しいと思う物である。手当してもらい大丈夫だよと言ってくれることを子供は望む。しかしかの子の傍らにいたのは親ではなく療育母である。療育母が可愛がってくれたにせよ子供が本当に求めるのは実の親である。このことを考えると岡本かの子は自分自身が信頼を寄せる人からの愛情を常に欲していたと心が叫んでいたに違いない。幼少期における親の愛情を一身に受けて育つということは何ものにも代え難い物であり、成長し大人になっても埋まらない埋めようがないものが大きな布石となり横たわる。彼女を精神疾患へと追い込んだ要因が無ければ母親の鏡のような人物として存在していたのかもしれないと私は考えている。ではなぜ彼女が正反対の母親像として世の中に捉えられる存在になったのか考えてみよう。

一人の女性が母親となりそれまでの自分中心の世界から他者である子供のために自分自身の時間を削り生きるにはある程度の覚悟を要す。そしてそれを理解し共に歩む人物が側に居れば他者という我が子のために生きることもできるのであろうが、岡本かの子の場合には夫の不貞や生活苦、嫁ぎ先からの批判や社会からのバッシング、信頼する兄と母そして子供の不幸、そして実妹への嫉妬が重なり自身の病いなどを抱え、その上に経済苦となれば心の余裕がない荒んだ状態で子供と向き合うことが難しくなるのは仕方のないことである。彼女の抱えている最大の問題は愛情に枯渇したくない、自分自身だけを愛してほしいという切実な煩悩であろう。やはり親自体が愛情に満たされなければ、腹を痛めた我が子でさえも眼中に入ってこないのである。

以前読んだ本の中に明朗な心境は肉体の健康を生み出し、精神の安定を図り、家庭円満や事業安泰をもたらすものだと記してあり正しくそうだと納得した覚えがある。母親になったとしても母親自身が心の安定を持てずにいると穏やかな子育ては難しいと言わざる得ない。裏を返せば先ず母親自身が元気で朗らかに過ごしていなければなるまい。そうでなければ子供に愛情を注ぐことは難しく、そこから生み出される愛情は無尽蔵に湧き出るものとはならないということだ。

『親はこうでなくてはならない』という考え方が皆無に等しいと言わざる得ない岡本かの子は何を望んでいたのかを考えると、やはり子供の頃に満たされなかった親の愛情を探し求め自分自身を無条件で愛してくれる人物を求めていたのであろう。夫一平は増水する二子玉川を血判状を手に命を賭けて結婚の許しをもらいに親元へ訪れ、自分の欠けた愛情を満たしてくれるのは夫しかいないと思い結婚した本当に純粋だった少女が、夫の裏切りで豹変してしまったという見方もできる。自分自身の中に欠けていた愛情のピースを見つけてそれをはめ込もうと受信無垢にしていた少女のような一面もあるがその反面、生々しさを抱えた強烈な女性であり息子太郎が人生を通して結婚や子供を持つことに拒み抵抗した原因を作った非母性を絵に描いたような悪気のない女性でもある。

ここでもう一つ母と息子の会話を取り上げておこう。息子太郎が病で三日寝込んだ時に一度も様子を見にこなかったことを太郎が問いただすと、「だって、病気をしている太郎なんて汚くて嫌だったから」とあっさりと言い放ったそうである。なんと非常識な母かと思うかもしれないが、かの子自身が病で親から別邸で隔離されて育ったのであるから致し方ない実体験からくる彼女の歴史を物語った言葉である。それをあっけらかんと子供に言い放ってしまう純粋さとも取れるような幼さがやはり彼女の中に存在する。

しかし親が幼いと子供はしっかりするのは世の常で息子太郎も母の置かれていた環境や状況を十分理解して母を決して恨むことはなかった。実は夫が家にお金をいれず食べる事にも事欠き電気やガスが止められ、実家の破産で援助も受けられない時に息子太郎に夫の愚痴も言わず「いつか二人でシャンゼリゼで馬車に乗りましょうね」と太郎に声をかけていたという。狂気に満ち阿修羅のような精神的に不安定な母の顔も、太郎を邪魔者扱いして6回も里子に出した母親の顔も、苦しい時にこそ夢を息子に語った優しい母も太郎にとってはいずれの母親もかけがえの無い母親だったのである。そして息子太郎が見ていた真実の母親と人が後ろ指を刺して母をなじる実しやかな嘘に子供ながら衝撃を受け、社会や人間に対する不信感と恐怖感を覚えたという。このことから『親はこうでなくてはならない』と人が判断するのではなく、当事者がどう感じどう思っているかが大事であろう。究極は当事者がそれで良いと判断したらそれで良いのである。

岡本かの子からは色々な親や子供の姿、夫婦や家族の形があり、自分自身はどうあるべきかを考える学びのチャンスであった。かの子をはじめとする岡本家の一人一人の人生の華やかさの陰に凄まじく理解ができない人間性の芸術的爆発を感じるのは私だけであろうか。

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