偉人『ボブ・マーリー』

先週末雨に因んだ記事を書きながらふとボブ・マーリーの言葉を思い出し、今日の偉人はレゲエの神様ボム・マーリーに決めた。

『雨を感じられる人間もいるし、ただ濡れるだけの奴らもいる』

ボム・マーリーのこの言葉は文末の人称代名詞こそ気になるが、名言中の名言だと私は考えている。この言葉の意味することを理解できるか否かはその人なりの感受性や深い所での思考力が必要である。何かを感じる人もいれば、何も感じない気付かないいや考えずに無関心な人もいる。この違いを考えると人生豊かに生きるためには日常の生活の中で感動を多く発見したり、人の優しさや喜び痛み苦しみに寄り添えたり、芸術センスに恵まれたりする方が何倍も物事から学ぶチャンスが多いだろう。だからこそ深みのある人間に育つのではないだろうか。今回は感受性の塊のような人だったボム・マーリーの人生から人間がどのように成長し人から一目置かれる人間になるのかを3段階で分析し考えてみる。

その前に私がボム・マーリーを知った過程を記しておこう。

この言葉に出会ったのは私が男であれば青二才と言われる大学時代である。講堂の前席でドレッドヘアーになぜか全身コムデ・ギャルソ風の黒服に身を包んでいる学生がいた。ルイヴィトンやハンティングワールド肩に掛けて歩くチャラチャラとした男子学生とは少し様子が違い、とても飄々として廊下ですれ違うたびにかなりいい香りを漂わせ、賑やかに数人の友人と行動を共にしていたかと思えば、静かに大学図書館にいた。基本私は風変わりな人にはそそられる性格でドレッドヘアーとジャマイカ国旗の色とは無縁な黒服を何故纏っているのか質問してみた。クールなイメージとは程遠い豆鉄砲を食らったような顔をしたその友人が驚くのも無理はない。なんの前置きもなく唐突に質問したのであるから。そのお陰かその友人とは意気投合しボム・マーリーについて教えてもらった。そんな彼がお寺さんの息子であったので風変わりな人物を発見する嗅覚は鋭かったと言える。

18そこらでボム・マーリーのレゲエの世界を精神年齢の高い同じ年の友人にレクチャーしてもらえたのは大変ラッキーであり、その後の人生でも友人ならどのように物事を見て捉えるかということを想像したりもした。ドレッドヘアーが目に入らなければボム・マーリーに出会うこともなかったであろう。結局レゲエという音楽にどハマりすることはなかったが、ボム・マーリーの考え方や思想的なものの背景には何が潜んでいるのかを知ることで社会の歪みや虐げられている人々の問題もよく理解することができる。大なり小なりどこの世界にも優劣つけたがるのが人間である。しかし問題を直視する人や少しでも関心を持とうとする人の間には温度差こそあれその問題に気づくことができているが、2つの目で見ていても思考に結びつかない場合には立ち位置が前者とはすでに違っている。やはり人間は感情がある動物でありその感情を感受性というものに置き換えることができたら、見える風景が全く異なってくるのである。あなたのお子さんには何が見えているであろうか。親の見た世界がそのまま子供が見たものになる傾向が強いことを念頭に置き、自分育てと子育てを邁進してほしいものだ。

前置きが本題のような長さになってしまったがどうかこのまま最後まで読んでいただきたい。


日本が第二次世界大戦の敗戦を受け入れた半年ほど前の1945年2月6日ボム・マーリーはジャマイカで誕生した。父はイギリス軍大佐ノーヴァル・マーリーでジャヤマイカ最大の建設会社を経営していた61歳の白人である。そして母はアフリカ系ジャマイカ人のセデラ・ブッカー16歳という異色の年齢も人種も大きく異なった夫婦であったがボム・マーリーの誕生後すぐに離婚した。母の元で育っていたが教育を施すという名目で一旦ボムは父に引き取られた。がすぐに父は息子を知人に預けボムは一時行方知れずになる。しかし母はその状況を知り即行動に出て息子をが探し当てた。父は何がしたかったのであろうか。その後も養育費だけを払う関係だったがその父も70歳で亡くなり、養育費が途絶えかなり困窮した生活を母子は強いられることとなった。

ボムは父に母共々捨てられた意識が強く、父に対する憎悪が彼を後にラスタファリ思想に系統していく原因となっている。その後12歳でキングストーンのスラム街へと引っ越し、レゲエ音楽家として共の活躍するバニー・ウェイラーと出会い、アメリカのラジオから流れてくるR&Bやスカ音楽に触れて音楽への探究心を共に深めていった。

彼の住んでいたスラム街は貧困・違法薬物・窃盗・殺人・抗争事件が日常的の起こる環境があったようだが、彼が当時ハマっていたのは読書とサッカーであった。敬虔なカトリック信者であったため殊更聖書を読み育ったことは有名な話である。その後の彼の考え方や生き方には聖書が少なからず影響を与えたといってもよいであろう。

また彼の育ったトレンチタウンは低所得者の集まるスラム街という一面とは別にもう一つの特徴があった。サッカーを中心としたスポーツも盛んで政治や文化面においても著名人を多く出している街でもある。何故そのような側面があった街なのかは調べることができなかたので不明ではあるが、国民性から考えると陽気でおおらかで素朴な人々である反面、彼らがプランテーションで働かされるためにアフリカから連れてこられた奴隷制の歴史を持ち、貧困と裕福さの間で不平不満を抱き常に打開策を考えているため感情が爆発する気象の荒さもあると言われている。そのエネルギーが爆発した時期がボムの音楽活動と合致した時代であろう。

1、自己実現

彼の出発点はまさに音楽の夢を叶えるためである。彼が全界で活躍できるに至った3段階の最初のステージが夢を叶える自己実現である。金銭的な問題で音楽活動が厳しくなると彼はアメリカに出稼ぎに出た。8ヶ月の間クライスラーの生産ラインでお金を稼ぎ全て音楽活動に注ぎ込み自主レーベルを立ち上げたがあっという間に資金が底をついた。音楽家となったがそれでも彼は諦めずに音楽活動を続けたのである。偉業を成し遂げた人物の出発点というものはほとんどがこの自己実現を全うしようと奔走する時間を過ごしている。


2、他者実現

音楽活動がうまくいかない中でも彼は自分たちの音楽を生み出そうと必死になり活動をしていた。自分たちの音楽を売り込もうとレコード会社の門を叩くが音楽性が合わず岩礁に乗り上げてしまったが、翌年異端的なプロデューサーとの出会いで彼らの音楽の道は順調に進みようやくなを知られるようになってきたのである。他者の介入により今までにない彼らの魅力を引き出す結果が、その音楽を通して人々を満たすことになったのである。


3、社会的貢献

彼が人生をかけて行き着いたのは『one  Love  愛を生み出す心は一つみんなで纏まればきっと大丈夫』であった。すでにレゲエというものを通して全世界に彼の音楽が届き始め、彼らは音楽を通して社会に目を向けていたのである。

当時ジャマイカ国内は2大政党による内戦が起こり、プロパガンダに担ぎ上げられた彼は政治がらみに巻き込まれメンバー共々リハーサル中に襲撃に遭い、仲間たちも重傷を負い彼も胸と腕を打たれた。一般人であればその事件後はリスク回避するところではあるが、2週間後に彼はライブを実行し対立していた2大政党のトップを招き舞台の上に上げたのである。それにより内戦を終結させた。彼の身の危険を顧みない振り切れた行動の根元には何が存在するのであろうか。先出の言葉にその答えがある。「他人を思いやる気持ち」=隣人を愛せよということだ。


ではまとめに入ろう。

ボム・マーリーというレゲエ界の神様は最初から人々のために立ち上がってきたのではなく、まず自分自身の道とは何かを追求し実現した後に、その努力を惜しまないことが結実し他者を巻き込んでより大きな花を咲かせ、彼の音楽に共感する人々に喜びや勇気を与えた。そして上り詰めてきた者が必ず目にする必然的社会貢献を実行する人物に変化したということだ。満たされた者たちが人々に分け与えるものを裕福層の使命であると近い人が日々口癖のように言っていた。お金はあの世には持っていけない。持っていけるとすればそのお金で何をしたかである。人々の役になる使い方をしたのか、困っている人に寄り添ったのかと。

しかし裕福な人物だけがそのような行動をとることではない。いろいろな階層の人々が自分のできる範囲でまずは自分の心を満たすためにできることをし、身近な人のために自分の労力を活かし、少しのゆとりを分け与えることをしてもいいのではないだろうか。そして分け与えられたものはその恩恵に報いるために心を磨き、勉学に励み、自らが社会に還元できるその日が来れば自分がされたように行動してほしいものである。人に優劣はない、あるのは人の心の中に存在する線引きである。その線引きをなくし心一つになれば愛となる。そのためには以下の言葉の真意であることを子供には身につけてほしいものである。


『雨を感じられる人間もいる。ただ濡れるだけの奴もいる』

自分を深く知り、共感する力を育てて行動を起こせる実行力を養い、献身的な姿勢を持ち持続性を発揮することでいろいろんものが見えてくるとボム・マーリーからのメッセージだと心に刻んで今日も過ごしたいものである。


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