偉人『ジャン=ジャック・ルソー』

ジャン=ジャック・ルソーといえばフランスの政治哲学者であり、社会論・文学・音楽・科学・植物学と幅広い分野で活躍した人物でもある。しかし目から鱗なのが日本の子供達が親しんでいる『むすんでひらいて』を作曲した人物であるということだ。彼は音楽の才能があり一時的ではあるが音楽教師として糧を得ていた時代もあり、それを知っていたら中学校で学習した遠い存在のルソーをより身近に感じることができたであろう。

ルソーの印象としては社会契約説と人民主権の印象が強くフランス革命の思想基盤をもたらした人物として捉えていたが、この仕事をするにあたり再びルソーを学ぶ機会に恵まれ彼の記した『エミール』という教育思想でもある小説に辿り着いたのである。これは現代の保育を学ぶ人たちにとっても学ぶ機会があるもので260年も前に彼が唱えた教育的思想は、後にフレーベルやマリア・モンテッソーリへと受け継がれている。今回は彼が唱えた『エミール』という教育思想と彼の生い立ちから何が見えるのかをのぞいてみよう。

1712年6月28日フランス語圏のジュネーヴ共和国の中間層に位置する時計職人の家に誕生するも母を生後10日で亡くし叔母の手により養育をなされた。父イザークは温和な人物であったがルソーに読み書きを厳しく教えルソーは7歳にして高度の書物を読みこなすまでになっていたようである。この父によって厳しく手解きを受けた学習は自然と読書に結びつき、彼の人生の糧となり身を助く手段となっていく。しかし父イザークは彼が10歳の頃に失踪し兄は奉公に出されたものの行方不明となり、ルソーは母方の叔父により従兄弟と共にフランスのプロテスタントの教会に預けられた。しかしその教会での生活はルソーにとっては耐え難い日々の連続で、牧師の妹による謂れのない罪で折檻や虐待を受け被虐性欲(マゾヒスト)に陥っており、そのことについては本人はかなり悩み彼の書籍『告白』でもその苦悩を綴っている。やはり多感な少年期に過度な折檻や虐待を受けることは大きな問題に陥ってしまうのだ。

その後生まれ故郷のジュネーブに戻り司法書記や彫金師にの見習い奉公などに就くもそこでも虐待に遭い、とうとう素行が悪く仕事をせず虚言癖も出るなど彼はどんどん精神的に追い込まれていく。ただそのような状況にあっても読書だけは継続し精神のバランスを保っていたようである。このようになかなか厳しい環境下で育ったルソーであるが、現代人の自由や権利が享受されたのは彼の提唱する啓蒙思想によるものが大きく、教育についても現代は当然の子供の権利や教育を提唱すしていた。しかしそれは当時のフランスをはじめとするヨーロッパでは画期的なものであり、当然王族や貴族、裕福層、宗教界では受け入れることができないものばかりであった。彼の置かれた環境を念頭に置きこれから先の記事を読んでいただこう。

ルソーの唱える『エミール』教育思想とはどのようなものであったのだろう。この世界に入りたての頃は何度読んでも難しく睡魔に襲われていたが、経験というものは大人になった私でも多くの学びを実感できるものであると実感でき、これが子供達の経験の重要性を投影しているとひしひしと感じることができた作品でもある。

ルソーの論じた『エミール』を紐解く前に当時のフランスで子供達がどのように捉えられていたのかを確認していこう。

18世紀のヨーロッパでは子供は小さな大人と見做され、貴族や裕福層の間では幼い頃から英才教育を施し礼儀作法を教えを叩き込んでいく状況にあった。その状況に異論を唱えたのがルソーである。ルソーの書籍『エミール〜または教育について〜』は日本では上・中・下に分かれて出版されているが、フランス人らしく回りくどい表現が多くかなり難しい。頭が明瞭な時に読まなければほぼ睡魔に襲われてしまうのであるが、実は保育を学ぶ人々はルソーのエミールについて学んでいたりする。かなりかいつまんでのテキストであるが、ルソーの社会契約論を読まずして理解ができるのかと疑問も生まれるのであり、それを読んだ後に『エミール』を読むとルソーが一貫して伝えたかった人の生き方というものが見えてくる。よって本来は彼の『社会契約論』を読んだ後に『エミール』を読んだ方が良いということである。しかし保育を学ぶ人々の学ぶの上でも効率や合理性を求める現代社会の教育の縮図が見え隠れするのかと残念に思うのであるが、保育や教育を生業としている大人こそルソーの社会契約論から学ぶべきではないかと感じてしまう。先日も保育者が幼児に暴行したなどの全国ニュースが報道されていたが、子供とは何かを学んできたはずの保育者が子供に手をあげてしまうのには、子供のことは学んできたのであろうが子供が成長しどのような大人に成長するか、こうなるべきであるという大人の像を想像できる学びがより多く盛り込まれていたら保育者の意識も別角度で大きく転換できたのではないかとさえ感じている。

ルソーの唱えている人生を通しての哲学とは『他者のことを考えることができる人間になれ』ということである。その考えを頭に入れて『エミール』を知ろうとすればその教育のあり方が明確に見えてくるであろう。

作品の中でルソーはエミールという架空の子供を登場させ、その乳児期から青年期の20代までをどのように育てるべきかを記している。『すべての人(みんな)のためを考える人間はどのように育つのか』をテーマにしているのだ。乳児期、幼児期、少年期、思春期、青年期の5つの構成でその時にすべきことを明確にしているのだ。『エミール』の上巻は乳児期から少年期までを取り上げているので子育て中の方は一度手に取られると良いかもしれない。

ルソーが一貫して唱えていることは子供とはその成長発達にあった教育を施すべきであり、自然体に見合った教育を施すべきであり0歳から15歳までは自分自身の心を育む教育を施し、15歳以降でみんなを大事にする教育を施せと語っている。

幼児から少年期までは自然の中で過ごさせ子供の持つ固有の感覚やものの見方、物事の捉え方や考え方を尊重すべきであるとし、子供の自然な成長を促すことが本当の教育であるとしている。しかしそれはただ自然の中で過ごさせるというものではないとも語っており、もし教育というものが施されない場合は子供自身が悪き社会制度に食われてしまうと語っている。ルソーは当時のフランス教育を全否定し、子供は小さな大人ではなく子供なんだという『子供の発見』ということを正当だと論じてしまったのである。現代に於いてはごくごく当然のことを語っているのであるが、当時は有力者や宗教界を敵に回してしまったのであるから出版直後に弾圧され彼の書籍である『エミール』や『社会契約論』は出版禁止のみならず読んでもならない禁書となりジュネーブ広場で焼き払われた。そして有罪判決を受け逮捕状が出され彼は各地を流転しながら逃亡生活を送ることになったのである。

彼の生活は転落の一途を辿り生活苦により自分自身の子供5人を育てることができず、5人とも孤児院に預けてしまう状況に陥りそのことを生涯悔んだとされている。現代の我々が享受している教育・自由・人権は彼の私生活の犠牲の上に成り立っていると言えるのだ。大きなものを捉え過ぎて自分自身の足元を見ることができなかった偉人の一人である。しかしそのような260年前の偉人ルソーの家族犠牲の上に我々が立てているのであるからやはり彼の考え方も知った上で現代に活かせるものを新たに構築できるよう日々進化しなければならないのではないだろうか。

ではなぜ主だった教育を受けず孤児院で育った素行の悪い人生を歩んだルソーが、現代に通用する教育思想を打ち出せたのであろうか。

それはルソーが幼い頃より父から厳しく教育された読み書きが影響している。しかしそれだけではなくその読み書きを単なる読書ではなく、難解な作品を幼児期に読み込む教育を受けていたからこそあれだけの哲学思想を論ずることができたと考えている。早期教育に異論を唱えていたルソーではあるが彼が大業を成し得ることができたのは父による厳しい読み書きの早期教育の賜物なのである。これが矛盾といえば矛盾と捉える方もおられるであろうが、ここから学ぶことは子供が楽しく学んでいるのであればその年齢が幼くとも意味があるものだと私は考える。そして単なる読書ではなく難解な作品を読み解くには思考力無くしては成立しない。そしてそれは狭い世界での思考では広い意味で物事を理解することができないのである。冒頭の彼の偉業を考えてみよう。政治哲学や教育論だけではなく、音楽や科学、植物学にも精通していたのであるという事実が彼の思考力の幅が広いことを示している。そのことを考えると机上の学習だけでは子供の人間性の幅を広げることにならないといっても過言ではない。だからこそ子供には多くの経験を与えることが重要なのである。幼い頃から読書に秀でていたルソーであるから想像もつかない理論を打ち出せたのだ。彼の経験は良いものばかりではなく、大人の心無い行動によるものからも影響を受け心身ともに傷を負った経験をしているが、その経験からかなり深い視点で物事を捉え思考を深めながら誰もが考えもしないことを導き出せたのである。単に時代を読み取る先見の明があると軽んじる発言を決してしてはならない。なぜなら彼自身が弱い立場にいたからこそ見えてきた真実であるからだ。一人の子供が受けた折檻や虐待の上に導かれた教育思想をどう捉えるか、そのことをきちんと学んでいたならば子供に手をあげることなどできない。教育に携わる仕事をしている方々をはじめ親自身もルソーの人生を紐解きながら子供を育てることを考えてほしいものである。



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