偉人『福田平八郎』
今週の子育てサジェスチョン提案記事は『子供の驚きの刺激』と題して記事を記した。その記事を受け大正から昭和にかけて日本画を牽引した福田平八郎を取り上げる。平八郎は子供の頃から絵を描く才能に恵まれ、身近に彼の才能を認める日本画家がいたことも彼の画家としての道を歩む手助けになった。
才能に恵まれ苦もなく絵を学び多くの手法を自らのものとした才能溢れる福田平八郎は、数ある絵画スタイルの中から写実画を選び、心血注いでありのままを描くことに拘りとうとう心を病むほどまでのスランプに陥った。そこで恩師の勧めで始めた琵琶湖湖のほとりでの釣りを通し、一気にスランプから脱する衝撃的な発見をしさらにその発見は平八郎に良質な刺激をもたらしたのである。
1892年2月28日大分県大分市で文房具店を営む父馬太郎と母安の長男として誕生。父の営む文具店の二階に近代日本画家の首藤雨郊が下宿していたおり、平八郎は自らの絵を首藤に見せ手解きを受けていたと言われている。家族以外の住人が家の中に居て日長絵筆を持ち日本画を描いている風景を間の当たりにする機会があるというのは、絵を描くことが好きな子供からするとどれだけ良質な刺激を連続して受けていたことであろう。そう考えるだけで彼が近代日本画を牽引するべく英才教育を受けていたと言っても過言ではない。
さて順調に大分師範学校の小学校に入学し、その後大分県立大分中学校に入学するも数学で落第点を取り中学3年に進級することができなくなってしまった。数学というものが存在することを考えただけで憂鬱になると語っていた平八郎である。彼の絵画の才能を認めていた首藤雨郊の勧めにより京都市立絵画専門学校別科に入学をすることを決めたものの、父馬太郎は反対し首藤の熱き説得に折れ京都へ行くことを許すことになった。
その後京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校を経て日本画家となる。彼の絵画の才能はズバ抜けており、あらゆる日本画の手法を容易に身に付けていったと言われその才能のベースとなるものが幼き頃から種痘の元で身につけて行った観察眼であった。
恩師は平八郎に「君は客観的に自然を見つめるのが良い。」と言葉を送り、平八郎はその言葉を大切に写生に没頭する時間を多く設け、時には紅葉だけを模写し続け腕を磨こうと努めていた話が残っている。彼にとっての写実は自然のすべてを掴み取りたいと意気込み、多くの時間を写生に割きその実力は並外れており学生時代から彼の右に出るものはいなかったようだ。そして平八郎の凄さというものは人々が見逃すところの美しさを決して見逃すことがないということである。
この青柿の葉を見ていただけると分かるが、写生するときの瞬間は6月の若葉はの深い緑、それが一ヶ月後の7月にはその葉が群青に水色のハイライトで日差しを照り返す様子を描いている。この7月の艶のある葉に光が差し色彩取りに変化することが大変美しいことに気づいたという。平八郎にとって写実は6月と7月のありのままの瞬間をそのまま描くのではなく、時間の流れと共に変化していく自然の様を確実に観て、それを一つの絵の中に切り取り閉じ込めていく類稀なる観察眼の才能があったことがこの作品から知ることができる。フランスの画家クロード・モネはこの時間の流れをその時々でその瞬間を1枚の作品ごとに写実したが、福田平八郎は1枚の作品に時間の流れを閉じ込めた美しさを表現したのだ。
彼自身作品を描くときにはなんであれ対象物を手にし、実際の質感を確かめながら必ず描いていたという。純粋な造形的な立場で対象物を目にしながら、多くの視覚体験を積み重ねた上で自分自身の作品を仕上げている。彼は自分自身の作品について「私の絵はわかりやすく言えば、写実を基本とした装飾画と言えると思います。」と話している。ただ目の前にある対象物を見ながら手に触れながら作品を描くのではなく、何度も対象物を捉えその経験を一つのアングルの中に収めることが彼のいうところの装飾画というところだろう。そんな彼が医者の診察を受けるほど精神的に追い込まれ全く描けなくなった。その原因は彼の最大の武器である写実であり、描こうとしているものを見尽くそうとしたが故のスランプであった。
絵が描けなくなり気分を紛らわすために誘われ釣り。釣れる時には全く気にすることがなかった湖面を不漁の日に眺めてえいるとある事実に気付かされた。平八郎がただウキを眺めていると肌にも感じることができぬ微風が吹き、琵琶湖の湖面にさざなみが立っていることに気付いた。その瞬間にその美しい波の動きに衝撃を受け、このさざなみを描かなければという衝動に駆られたという。遅筆の福田には珍しく琵琶湖を一周して写生をし帰京後10日で彼の最高峰と呼ばれる作品『漣』を仕上げた。何度も訪れて釣りをしていたにも拘らず気づくことができなかったが、この衝撃的な事実が彼を突き動かしさざなみの出来方や湖面に映る光のゆらめきだけにフォーカスして不要なものを削いで削いで削ぎ切ったものとして表現した。
自然を見尽くそうとした観察眼が自然から発せられる良質な刺激によって、福田平八郎はスランプから脱却することができ、尚且つ彼の最高峰と言われる作品を描き上げることになった。手違いで貼られた金箔のキャンパスにプラチナを貼り重ねその上に絵の具を載せている。彼自身がいうところの写実と装飾が劇的にマッチした作品といえよう。
しかし平八郎の観察眼は日本画収まらず海外で学んだ西洋画家との交流や西洋画から独自の探求を繰り返し、現代に通用する斬新な作品を生み出す貪欲なまでの探究心も持ち合わせていたのだ。今から90年前後の作品はどれをとっても古臭さがなく、現代のイラストにも用いることが可能な可愛らしさが存在する。それはどうしてであろうか。私なりの見解であるが彼の作品には日本画の基本的技能の上に足して足して描き切った時代から、本物の中にある抽象的なアウトラインだけを切り取ったシンプルさが上品に存在しているからであろう。
平八郎は自然の中に身を置いてその中に存在する真髄を見抜こうとすることで表現が生まれ、真髄に辿り着いたが故に抽象的に物事を捉え、具象的ではない作品を生み出すことにとなった。
この仕事をしていると子供というものは視覚的認知の高いことは間違いないのだが、稀に福田平八郎のように物事を達観的に捉えている子供に出会うことがある。そのような子供の印象は子供らしい子供とはどこか違い、非常に落ち着いており大人や周りの意見に左右されることなく黙って人の話を聞いた後にポツリポツリと自分の言葉で感じたことや思ったこと、考えたことを話したり形にする特徴がある。また見ている対象物が人や動物であればその心情を瞬時に理解できたり、それが人工物であれば人間がどのように関わってできたものなのかを想像したり、自然に関することであれば自然の中に身を置いてきたかと思うような発言を行う大人びた感がある。
そのような子供の4、5歳は大変無口であり、小学校入学前後になると大人がハッとするような意見を述べ始める。また彼らに共通していることが優れた観察眼の持ち主であるということだ。
人生経験がそれほどない子供達でありながらなぜものの真髄を見抜こうとする経験を積めるのか不可思議であろう。しかしそこには確実な働きかけが存在する。
その働きかけは生後間もない視覚対象物がぼやけている状態からモビールや固視を促すおもちゃを用いて月齢の発達に合わせた取り組みを乳児発信で行わせることだ。これは何だろうと焦点を泡得ることに努め、徐々にそれが見えてくると何であるかを形や色を認知し、観たものの情報を精査していくことになる。よってモビールや虎視を促すおもちゃなどがあるとないとでは観察眼だけでなく思考を育むことにもさが生じるのだ。ここで大変重要なのが乳児発信でものを見ていくということだ。決してフラッシュカードなどをすべきではない。乳児の発達のスピードに合わせてゆっくりじっくり進めることが重要である。
晩年平八郎は子供の描いた作品を模写することに夢中になったという。「子供達の描く絵には学ぶことが大きい。」とし色や形のシンプルさにヒントを得たことは間違いない。写実に徹し多くのものを捉えよう捕まえようと貪欲に絵画と向き合っていた時代から、徐々に真実の中に隠されている不要なものを削ぎ落とした描くとなるものだけを追求した平八郎の人生からは、子供達の曇りのない真実を捉える純粋な力を感じ得ていたのではないかと考える。案外子供というものは何も知らないようであっても物事の真髄を見ているからだ。
今回は福田平八郎のような目の前に来たチャンスを逃さない子供にするためには、新生児からの視覚認知の働きかけを乳児のペースでゆっくりじっくり行わせることも一つの方法であることを記した。
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