偉人『北条政子』

日本の三代悪女豊臣秀吉の妻淀君、足利義政の妻日野富子、そして源頼朝の妻北条政子がいる。その中で悪女として名が挙がることの多い北条政子であるが、私は彼女ほど家臣や子供の深層心理に深く向き合った人物はいないと考えている。

1157年伊豆の然程権力のない一豪族北条時政の長女として生まれた北条政子は、1176年平治の乱で伊豆に流人として流された源頼朝と出会った。平清盛が天下をとっている全盛期に流人の頼朝に政子が一方的に思いを寄せ、父の反対を押し切り熱烈なアプローチで結婚したのである。世の流れが平家に向いている時代に負けた源氏の頼朝に嫁ぐことなど考えられないことであるが、それを自ら進んでやってのけた政子の決断というものは大変興味深いものである。人を見抜く力がなければできない行動であるとも言える。政子の人を見抜く力、人の深層心理を読み解く力は実は父北条時政の土台の上に成り立っているものだと言っても過言ではない。

今回は北条政子という人間が夫頼朝亡き後に家臣の心を掴み、鎌倉幕府を引っ張ることができたのかを知り、子育てに政子の得意としたことを当てはめることができることを実践して欲しいと考える。

北条政子の最大の能力は深層心理を読み解くことに長け、さらに人を見抜く力に長けていたことである。そのことがよくわかるエピソードが承久の乱で朝廷を相手に戦いを不安視する家臣らに語った政子の『最後の詞』を取り上げる。

「皆、心を一つにして聞きなさい。これが私の最後の言葉です。今は亡き頼朝様が平家を征伐し鎌倉幕府を開いて何不自由なく暮らすことができている。その恩は海よりもまだ深く山よりも高いのです。報いようとする志が浅くはありませんか。3代続いた源氏の遺跡を守り抜くのです。ただし朝廷につきたいと言う者は今すぐ名乗り出なさい。」

一部省略し簡潔にまとめたものであるが政子の見事なまでのこの発言は現代の我々が読んでも心動かされるものである。この言葉を聞いた家臣らは万感胸に迫る思いや魂が揺さぶられるほどの厚き思いを抱いたことであろう。その証として朝廷に抗うことに恐れを抱いていた家臣らは、政子の言葉を聞いた後誰一人朝廷に寝返るものはなかったのだ。

朝廷に反旗を翻したものたちが討ち取られてきた時代の中、敵対する後鳥羽上皇は文武両道に秀でておりどう見ても勝てる自信がない家臣たちを鼓舞して勝利に導いた北条政子の采配には、やはり政子の持つ高い能力が関係している。このことを以下で確認してみる。

1、観察力に秀でていた

北条政子の父時政は伊豆の豪族としての記録があるが出自についてはす記されておらず、弱小の豪族だったと言われその長女である政子も自由奔放に育っていた。北条家は平家の流れを汲み父時政は流人の源頼朝を監視下に置いていたのである。

政子には父が決めていた平家の流れを汲む結婚相手の山本兼隆がいた。しかし流人の源頼朝との恋愛に落ちた政子をは結婚を熱望し父は政子を幽閉したのであるが、父時政の不在時に政子は頼朝の元へ駆け落ちしてしまったのである。政子の行動は平家に逆らうことになったと受け取られてもおかしくないものであり父時政は立場上娘の思いを止めなければと考えていたのは容易に想像ができる。実は政子以前に頼朝は八重姫と付き合っていたのだが、父伊東祐親の反対で頼朝との婚姻を諦め、頼朝との間に生まれた子供の存在を平家に知られては困るとして頼朝の子供の命を奪っている。そのような時代である。平家の流れを汲む北条の娘が仇の源氏に嫁ぐなど以ての外であったのだ。しかし政子はかなり自由奔放に育ちあまりの意志の強い人物であったゆえ父も受け入れざる得なかった。

一方父時政も肝が坐っている人物で平家の全盛期にあって驕り高ぶる平家のやり方に疑問を持っていたようである。そこに娘が惚れた源頼朝の心意気に触れていくうちに二人の結婚を受け入れていったようである。この父時政あっての娘政子の大胆な行動という見方もできる。

平家に恐れをなし頼朝の子を手にかける平家の流れを汲む豪族もあれば、北条のように当初は反対をするものの頼朝の人柄を受け入れる豪族がある。この違いは何か。それはまさしく観察眼の違いであり空気を読むのではなく時代の真髄を読む力である。

これらのことから政子の観察眼は父親譲りであり、その娘の人を見抜く力(男を見る力)を信じた父の柔軟な生き様が鎌倉幕府を築き、地方の弱小豪族の北条氏が全国区引き上げ100年以上も政治の中心にいる豪族になったのである。

子育てを行う中で空気を読んで子育てをする場合もあろうが、空気を読み過ぎることも子供の可能性を摘んでしまう事にもなりかねない。空気を読みすぎず適度に読んでことの真髄を読み解く練習が複雑なものが絡まっている時代には必要なのである。


2、共感する力

観察眼の次に政子の優れた力といえば共感力である。20歳で頼朝と結婚し夫を将軍にし家を盛り立て尼将軍になってからの承久の乱のエピソードは先述したのであるが、政子の優れていたことは常に周りと共感する力を持っていたことである。

承久の乱で腰のひける家臣らを奮い立たせ後鳥羽上皇相手に勝利したその勝因は、無難な戦法である守りに徹するのではなく、リスクはあるが先手必勝で攻め抜くという一か八かの戦法を唱えた老家臣の意見をしっかりと理解し共感し信じたことにある。ここぞという真意が試される大一番ではやはり共感することが重要である。しかし政子の悪女と言われる所以もまたこの共感にあるのだ。

政子は4人の子供を授かっている。最初の子供大姫は幼くして亡くなっているが、鎌倉幕府の二代将軍である息子の頼家は母の心知らずの無法者で家臣に共感することはなかった。家臣の愛妾を強引に奪って妻にしたり、家臣が異議を並べていると耳にすればろくに調べもせず手に掛けてしまおうとしたり、鎌倉幕府に尽力した家臣の喪に服さなければならい時期に蹴鞠の興じたりと家臣に共感することを義としていた母政子の教えからは遠い人物であった。

政子は家臣に手をかけるのであれば私が真っ先にその矢に当たるとし、主人たるもの何事に於いても深く心を配らなければならず、そのことができて初めて末代まで世の乱れが起きないものだと息子に伝えているが、やはり頼家には通じなかった。そして頼家は将軍の器ではないとして弟の実朝が三代将軍となり、北条の手により温泉に入湯している際に21歳で暗殺されている。

そして次女の三幡も病死し、三代将軍実朝も兄頼家の息子公卿により暗殺されてしまった。家族を次々と失った政子は、息子らに説いて聞かせ続けた共感を家臣らに向け我が子のように大事にしていたという。政子の強さというものは家族を失い孤独の中にいても鎌倉幕府に対する変わらない思いがあり、幕府を守るために共感をし続ける人生だったと考える。

政子の共感力から何を学ぶかということであるが、他人の言葉や考え方行動全てに共感するということは難しいものであるし、全てに共感しなければならないということもおかしな話である。こそだに関する共感というものを私はこう捉えている。子供の思いや考え方になるべく目線を合わせ同じ温度で話ができるようにした上で共感できるものに共感し、少し意見や考え方が違うなと感じたら政子のように自分の考え方はこうであるが、あなたがどう考えどう感じているかを選択するのは自由であるというスタンスを持ち子供に伝えることが重要であると考える。やたらめったら共感していると共感しなければならないものだすり込んで教えてしまう事に成りかねない。共感とは自分自身の中で腑に落ちた時に共感すればいいということを教え、共感できない場合には相手を理解しようと努めることを教えるべきではないだろうか。

北条政子は息子頼家に対し共感することの重要性を説きその選択は頼家に任せた。しかし頼家は改めることができず鎌倉幕府の安泰のためには頼家には任せられないとして、政子の弟の北条義時の手のものが暗殺したとされているが、そこにも政子が関与しているという説もあり政子の悪女説の原因にもなっている。やはり愛する夫の築いた鎌倉幕府を存続させるためには致し方なかったかもしれぬ。そしてそこにあった誤算は次男実朝が頼家の子供に暗殺され血筋が途絶えたことであろう。大きなものを得たら何かを失うというものは偉人らを見ていたら当然のように繰り返されている。偉業を成し遂げようとするものの痛み苦しみ葛藤とは以下ばかりだったであろう。

北条政子は悪女という人物像ではなく、愛するものへの深き愛情と真髄を見極めるために切磋琢磨し深い視点で人々と向き合った情熱を持った人物であるとしてこの記事を締めくくる。

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