偉人『ヨハンナ・シュピーリ』
ヨハンナ・シュピーリ、彼女の名前を出しどのような人物なのかを容易に想像できる人は少ない。しかし『アルプスの少女ハイジ』と付け加えると大概の人は作者だと推測できるようだ。『アルプスの少女ハイジ』は児童文学のパイオニア的存在に位置しながら作者自身の知名度がなぜか低い。また彼女の児童文学には鋭い視点での問題提起がそこかしこに存在し当時の子供達や女性たちが置かれている厳しい状況に目を向けることができる特殊な作品でもある。
鋭い観察眼の持ち主のものの見方や捉え方、生い立ちや人生観を知りたいと自叙伝を依頼する人々がいたが何故か彼女は頑なに断り続け、自分自身を知る手掛かりを回収し廃棄したのである。こうしたことが彼女の認知度の低さに関係しているのだ。今回はその理由を考えてみる。
彼女の人生を紐解く前に少し雑学を付け加えておこう。『アルプスの少女ハイジ』が書かれたのは今から144年ほど前、そして日本で出版されたのは大正時代である。そのタイトルは『楓物語』。西洋人の名前に馴染みのない日本人のためにハイジは楓、クララは久良子、ペーターは弁太、デーテおばさんは伊達おばさんとされていたそうでなんともまぁ下手な命名である。そして時は流れ映画化や舞台化されるなど色々な世界観が描かれ、ヨハンナ・シュピーリは幼いハイジを軸に2冊の作品を書き上げただけであったが、フランス語圏ではなんと別の書き手によりハイジが老婆になる年代までも書き足されてしまったのである。捏造に近いことまでされた作品が、1974年にスタジオジブリを牽引した高畑勲氏や宮崎駿氏らによってアニメーション化され、スイスの美しい景色の中に存在する純真無垢な原作に近いハイジが描かれ今ではそのアニメがスイス公認のようになっていることが誇らしいことである。
それでは本題に入ろう。
1827年6月12日スイスチューリッヒ郊外の豊かな自然の残るヒルツェルで外科と精神科の開業医である父ヨハン・ヤコブ・ホイッサーと母マルガレータ・メタ・ホイッサーの間に7人兄弟の4番目として彼女は誕生した。母マルガレータは讃美歌を多く手掛ける宗教詩人で現在もその地域では娘のヨハンナ・シュピーリより有名な存在である。宗教詩人の仕事同時に精神を病む入院患者の世話にと大変忙しく働き子供らの側にいることはできず、子供達は叔母の手によって育てられ彼女もまた母との関係が希薄で寂しい思いをしていることから物語の中でハイジやクララが母との関係性が希薄なのは彼女の実体験で自分自身を投影していると語っている。
子供達に父母恋しさを抱えさせつつも両親はしっかりとした教育を施し、ヨハンナ・シュピーリもまた当時としては大変珍しい高等教育を受けさせている。しかし彼女は最高の教育を受けることができたものの卒業後は社会に出ることもなく弟や妹に勉学を教え家事手伝いをしていた。その後兄の友人と結婚し長閑な生まれ故郷ヒルツェルから都会のチューリッヒに移り住む。結婚による束縛と都会のブルジョア階級の生活に馴染めず、さらに弁護士である夫は書類や本に目を通し続け会話もろくにない状況での妊娠で情緒不安定さも加わり精神的に追い込まれうつ病を発症した。多くの人々に支えて貰いながら息子を教育することに力を注ぎ数年かけて徐々にうつ病から脱却したが、またヴァイオリンの才能を持った息子が肺結核に罹り29歳の若さで死去、そして夫とも死別する。次々に降りかかる苦難や苦悩から彼女は自分自身の精神の安定を児童文学の執筆に見出したのである。
ヨハンナ・シュピーリは自分の人生をこう語っている。
「私の人生は表面的には地味で語るようなことはない。しかし内面的には波乱に満ちたものでした。」この波乱に満ちたという言葉の裏には愛するものの死を受け入れることのできない辛さだけではなく、精神的に追い込まれる自分を立て直そうと必死に足掻いてきたことを指していると考える。彼女の感受性の高さが精神を作ったという意見もあるが、私は幼い頃から目にしていた精神を病む患者の様子が少なからず彼女の精神に影響していると考えている。何故なら子供は良くも悪くもスポンジのように何でも吸収力する。その作用が良い方向に働けば良いがそうでない場合はやはり影響は受けやすいため子供の精神の安定にかなり注視して子育てをするべきだと考える。
彼女は自分のうつ状態をコントロールする方法を執筆活動の中に見出し、作品の中で自分自身を解放し精神の安定を図ったと考える。彼女が書き起こした50作品の中にその心の解放が断片的に捉えることができたことで病も下方に向かい、人間としての真実が作品に記されていることで空想で生み出したものとは明らかに異なる真実が存在し、人々の心を掴んで離さないものとなっている。あの美しいスイスのアルプスの風景と純粋無垢なハイジの物語の中に存在する人身売買に近い子供の存在や女子供の置かれている屈辱的な立場、母に愛される環境にない子供の寂しさ、人間が追い込まれて病んでいく様子などが『アルプスの少女ハイジ』には描かれている。子供向けの児童文学であるからこそ彼女は自分自身の思いをパズルピースのようにはめ込んで表現することができたのであろう。もし彼女に物語を書くという心の安定を図る場所がなければ彼女の精神は崩壊していたであろう。またその心の安定をいかに図るのかということに思い至ることができたのは、やはり精神科の父や母の献身的な患者との向き合い方をも見ていたからに違いない。時間がかかっても前向きに自分自身を見つめることができる懸命さを兼ね備えていた一方で自叙伝の依頼に応じることを拒み続けていたのは、自分の心の安定の唯一の執筆活動の中に入り込んでほしくなかった。そしてそれが彼女の認知度の低さを招いていると考える。
彼女の中に立ち入ることができずとも作品の中に彼女の経験や考え思いが投影されていることから彼女の人間性を見出すことは可能である。子供向けのアルプスの少女ハイジを映像で見るとヨハンナ・シュピーリの苦悩を子供達が汲む取ることは少ないと思うが、真実があるので何故デーテおばさんはハイジを紹介し金銭を得るのか、ロッテンマイヤーさんはこんなにも辛くハイジに当たるのか、ペーターのお母さんはハイジからお土産をもらってもお礼を言わないのか、ハイジが夢遊病にかかるほど追い込まれていくのを大人は気づかなかったのかなど疑問を持つことはできるだろう。だからこそ児童文学というところの深いところで物事を知る考えることができる作品なのである。小学校に上がった子供たちには文学として読んでほしいものである。
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