偉人『北杜夫』

『どくとるマンボウ航海記』は私が小学生の頃に家の書棚に置いてあり、なぜかふと手に取り読んでみようと思い立ったのであるが、小学校入学したばかりの私には読めない漢字があり父にねだって読んでもらった作品である。がしかし小学校低学年でこの物語を理解していた記憶があるかといえば無く、父のあぐらの上に座っていた記憶と本の表紙の記憶しかない。しかし中学で再びこの『どくとるマンボウ航海記』を読むと所々に散りばめられたユニークさに完全にハマりきってしまいシリーズを読み進めた。しかし青春期はどうしても自分自身の経験値が低いからか深いところでの読破はできていなかったように思うのだ。印象として残っているのは主人公の医学生がいつか医師としての肩書きを捨て物書きになろうとしているということである。この内容が北杜夫氏自身の話を面白おかしく記しているその反面、所々記されている苦悩や寂しさどこかきているのかを彼の育ちから考えていこうということである。

北杜夫氏は1927年5月1日東京南青山で生まれ本名は斎藤宗吉。祖父は医師であり政治家の斎藤紀一、父は斉藤家に婿養子に入った歌人であり精神科医の斎藤茂吉、兄はモタ先生こと精神科医でありエッセイストの斎藤茂太氏である。北杜夫氏の人生を紐解く上でどくとるマンボウシリーズが欠かせない訳であるが、麻布中学の部活動(現在の生物部)で昆虫採集にののめり込み将来はファーブルのような昆虫学者になるために長野県松本の松本高校に進学し、ドイツの小説家トーマス・マンの作品と出会い文学に目覚め文学の道に進みたいと熱望し将来は『ファーブル昆虫記』のような博物学(動物学)と文学を併せ持つ作品を執筆したいと考えるようになる。

ところが祖父紀一も医師、父茂吉も病院を存続させるために婿養子に入った精神科医である。北杜夫は次男でありながらも医師の道へ進むよう父茂吉に強烈な言葉で厳命を浴びせられた。動物学や文学の道へ進むことを反対した父茂吉は「お前はバカになった」と書かれた手紙をよこすほどの厳しさだったようである。彼はささやかな抵抗と交渉をしたものの聞き入れられず医学部に進学した。

当時の親子関係といえば父親の絶対的存在が色濃く残り子供の選択すべきことを親が決める時代である。彼は父に自らの思いを伝えた受け入れられず自分の思いを押し殺して東北大学医学部に入学はしたものの授業にはろくに出ず卓球ラケットと片手に日中を過ごし、夜になると父の用意した医学書代や学費で飲み歩く有様であったようだ。また父茂吉は精神科医としての給料では生活はままならないだろうということで彼に外科医になるよう勧めた。その父の命に従い一時は外科医になるために学ぶも手術に立ち会い手術の光景に意識を失いかけ外科医の道を断念した。しかし杜夫はこれ以上父を落胆させてはなるまいと外科医にはなれないものの精神科医になるべく決意をし落第することなく医学部を卒業したのである。子供の頃から父の存在をよく思っていなかったことや彼の進むべき道を反対する父に背かなかったのか、それは父自身が精神科医でありながら歌人として活躍していたことや高校生の時に父の目を盗んで父の作品を読み文学的才能に敬服していたからであろう。自分自身も父のように二足の草鞋を履いてもいいのではないだろうかと考えていたのではないだろうか。

みなさんはこのようなことを耳にしたことがあるだろうか。「親のいうことよく聞く子供は成長が伸び悩みする」「子供が自立できない」「いつまでも受け身でいる」「成長していく段階で自分自身とは何か、何をなすべきかと悩みを抱える」など課題が出てくるものである。親の言われた通りに行動をすれば子供自身が意欲的な学びや行動ができず、活動も自ら決断することができなくなる傾向がある。そして子供自身のやりたいことができずに過ごしていくと子供が自分自身とは何かということに大いに悩み疑問を抱くことがある。北杜夫氏が医師としての表の肩書を持ちながら父に内緒で文学作品を書いていたが、作品が思うように評価されずジレンマを感じどうにもならない感情に陥っていた時期もあり悩み大きい二刀流の時期があったのである。

親が敷いたレールを子供自身が何も考えず素直に歩み始めると大きな成長は望めず、自ら考え行動することが難しくなり指示待ちの傾向が強くなるなどの傾向が一般的に見受けられるようになる。それ以上に懸念すべきことは子供自身が『やりがいを見出せない』『こんなはずではなかった』『自らの人生をなぜ親が決めるんだ』などと後悔を子供が抱くことである。子供の人生を考えた時自分自身の足でしっかりと立ち自分自身の生き方を決め歩むことが何よりも幸せなことである。どんな人生であろうと子供自身が決めた進んだ人生というものは、子供自身がしっかりと責任を持ち取り歩むことができるものだ。北杜夫しと父茂吉の関係は時代の流れという封建的な親子の関係が色濃く残り、彼は親に逆らえず医師となることを決めつつも小説を書くことも譲らず実行している。親の意見に耳を貸し医師にはなったが結局は医師から作家に転向したことから遠回りはしたものの自分の道を選択したといえよう。そしてその経験をどくとるマンボウシリーズで赤裸々に綴ったのだ。あれほど反対をした父茂吉も息子の作家としての活動を晩年には認めている。彼らの間には家を守る病院を守るという大きな壁がそそり立っていたからこそのすれ違いであり、もしその壁がなければ親子が共に文学という川のほとりを堂々と語り合いながら歩むことができたかもしれないが、父茂吉も義父の思いに応え医師となり自分の生き方を自由に選択することができなかった人生を送ったものの歌人としての人生を歩み、また息子北杜夫も斎藤茂太も父と同じように二足の草鞋を履き活躍していることから斎藤家の人物らは文学の才能を持ちつつも二足の草鞋を履く宿命だったのではないだろうか。確か北杜夫の娘の斎藤由香氏もサントリーで会社を劇的変化をさせた功績を持ちながらエッセイストとして活躍をしているのだからやはり斎藤家の人々は才能豊かな人々なのは間違いなさそうだ。

さてまとめに入ろう。北杜夫氏は作家として自由な時間を得た時期から躁と鬱病を交互に発症しながらも作品を書き続けた。彼の代表作としてユーモア溢れる『どくとるマンボウ』シリーズは、彼が人生において一番必要なものはユーモアであると説き続けたユーモアが所狭しと散りばめられ笑いを誘う。そしてもう一つの純文学は父の文才を受け継いだ『楡家の人々』である。自らの家系をモデルにすでに大学時代から既に構想していたとされ、紛れもなく文学の中で自分自身も家族も活かし切った作品である。

家柄も経済的にもそして才能にも恵まれた環境にありながら、家の存続のために自らの思いとは正反対の道を選びそれでも諦めきれず自らの意思を隠しながら通した苦悩や屈折した思い、複雑極まりない感情に左右されながらもその中で自分らしさを活かしながら文学の道で生き切ったのが北杜夫である。真剣に物事を受け止め、幼い頃から心を痛め苦しみ、子供の力では解決できない困難や寂しさを抱いていたからこその感受性が育ち、彼が心の求めるまま文学を愛し続けた結果が彼の作品であり、作品自体が彼の人生であったに違いない。

彼の人生からも分かるようにどんなに子供のやりたいことに親が反対しても子供がこれだと決めたことを親は阻止することはできないのである。そのことがわかる親でいることが昔も今も親に求められることの一つではないだろうか。しかし世の中が大谷翔平で沸き立ち野球というフィールドで二刀流の才能を開花させたことを目の当たりにすると、職業こそ異なる医学と文学の両立の道極めたモタ先生は流石だなと思うのであるが、やはり人間臭さの残る北杜夫氏の作品は兄とは格段に違う面白さがある。つまり上手に世を渡ってきた兄と文学的才能を開花させるために身を削って作品を生み出した弟北杜夫の作品は同じ親から生まれてもこんなにも生き方も作品も異なることに魅力を感じる。その違いはやはり子供が何をどのように感じたか考えたかの違いであろう。同じように育てても同じようには育たない、だからこそ子育ては面白いのだろう。

さて次回は北杜夫と斎藤茂太の母斎藤輝子を取り上げる。


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