偉人『聖ヴァレンティヌス』
今日はバレンタインデーということでバレンタインデーの起源である実在した人物聖ヴァレンティヌスを取り上げる。毎年このヴァレンティヌス司教を取上げようとしていたのであるが、あまりにも古い人物で出自の情報が探し出せずどうにもこうにも記事がまとまらないということで先送りしていた懸案であった。しかし「やらねばならぬ」ということで視点を変えて記事にまとめてみた。では早速記事を記していこう。
バレンタインデーの起源は諸説あるが有力視されているのが3世紀のローマ帝国のヴァレンティヌス司教の殉教である。ローマ皇帝クラディウス2世によりキリスト教は弾圧され兵士らは宗教の自由も与えられず、また闘いの士気を下げるとして婚姻も禁止されていた。
3世紀のローマは3世紀の危機と言われるかなり武力で権力を争う厳しい時代であり、ローマの北方にはゲルマン人、東からはササン朝ペルシア人に侵入された時代で50年間で軍人出身の皇帝が26人も出た時代である。よって弾圧と抑圧の中で生きる兵士や市民たちに救いの手を差し伸べていたとされるのがヴァレンティヌス司教である。ローマ兵士がヴァレンティヌスの洗礼を受けキリスト教徒の娘と結婚をするものが現れ、その後多くの兵士がキリスト教に改宗し洗礼を受け結婚した事実に国の存亡をかけていた皇帝クラディウス2世にとっては危険分子と見ていたに違いない。ヴァレンティヌスは再三に渡る勧告を受けていたにも関わらず不況や兵士の改宗と婚姻を強行し、273年反逆罪で処刑されたのである。その後ヴァレンティヌス司教は愛の守護聖人として称えられ殉教した2月14日が聖ヴァレンティヌスの日とし彼の死を悼む日となった。そして何世紀もの時間を経た14世紀に入り2月14日が恋人たちの日となり大事な人に思いを伝えあうようになった経緯がある。
つまりヴァレンタインでーは愛を伝える日であるが実は始まりは宗教人の処刑された日である。ヴァレンティヌスは宗教人として自らの命を犠牲にしたとも言える。
ヴァレンタインデーが近づくとふと頭をよぎる2つのことがある。一つ目は我が国のバレンタインの歴史とチョコレートをもたらした一族と日本企業の商業的背景、二つ目はキリスト教の殉教への是非である。一つ目については来年のクリスマス記事として取り上げることとして今回は二つ目の殉教について子育ての視点から考えてみる。
日本では江戸時代のキリスト教信者への弾圧として踏み絵が行われ多くのキリシタンが犠牲となっている事実を歴史から学んでいるが、宗教に関わらず自分自身の身を投げうち他者を助けることへの美化がなされることに子供の頃は何の疑問も持たずすごい人がいるものだと感心した記憶がある。が子供を持ち親となってからはこの自己犠牲や殉教というものがいかなる時でもあってはならないものだと考えるようになった。その反面我が子の命のためなら自分自身の犠牲は厭わないかもしれないとふと考えることがあるが子供達には自らの人生を犠牲にすることはしてほしくはない。同時に私が自分自身を投げうてば我が母は私の身を案じ涙に明け暮れるだろう。子を思うか親を思うかを考えると何が正しいのかわからなくなる。これが究極の親子の愛という自己犠牲というものだろう。
一方他者との関係性で自己犠牲や殉教があって良いだろうか。私の考えでは犠牲や殉教によって他者が救われたとしても最も大事な人が嘆き悲しむのであればそれは違う。必ず別の方法があるのではないかを考えるべきであり、自己犠牲や殉教を果たしたとしてもそれは自分自身の使い方を間違えていると感じてならない。しかしこう自分の考え方を記している一方である事故が頭を過ぎる。2001年JR新大久保駅でホームから転落した日本人を救助しようとした韓国人留学生と日本人が命を落とした事故だ。咄嗟に行動した正義感溢れる彼らにも別の方法があったかもしれないと思いつつも遺族の前では自分自身の考えは言えないであろう。子供を亡くした親の思いを考えると犠牲となった息子さんやその両親に寄り添うことしかできないのではないだろうか。そして尊い命の犠牲を無駄にしないためにどうすべきかを考えるということになるだろう。考えれば考えるほどこの問題の持つ意味の深さを感じてならないのだ。人間はこのようにして悩み考え苦しみながらその時々で深く思考することが求められ試されているのだろうか。先日帰省した子供が自らの命を何度も危険に晒す方との関わり方でかなり沈んでいた。精神的に強い我が子ではあるが人の命に接することの難しさを抱えているのだと考えるだけで私も苦しいものがあった。人の命を預かる仕事をしている職業は多岐に渡るがどの職業でも命に関わることは慎重に考え行動するプレッシャーがのしかかっている。100パーセント安全で良い結果が生まれるとは限らないと頭では理解しても実際に経験すると理想と現実の違いに呆然となるのであろう。親としては話を聞いて寄り添うことしかできないのが事実で後は子供自身が物事をどのように受け止めるのかを見届けるしかない。やはり親は木の上に立ち子供を見守るしか最後はできないのである。ヴァレンタインデーでという街の賑やかさとは真逆のタイミングで人の命を考えることや大切な人の命の重みを再確認する年があっても良いのではないだろうか。
ある底で年齢のいった子供たちにはバレンタインデーの華やかな表面的部分を見るのではなく、裏のs工面となる起源や歴史、人の命を考える物事の深い部分を捉え思考できる人物であって欲しいと考える。また世界の国々でバレンタインデーの向き合い方や過ごし方も異なるため他国を知るということも子供の視野を広げることになり、多様性を学ぶべきこの時代の子供達には多角的物の見方ができることを望みたい物である。
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