偉人『種田山頭火』
北海道旭川市に住んでいる頃、家の近くに『山頭火』という名の旭川ラーメン店があった。山頭火のように諸国を歩き回りラーメン道を極めた店主が開いた店なのか、それとも山頭火が愛した酒をラーメンに入れたのか、はたまた山頭火のように定型を打破し新しいものを作り上げたのかと色々想像したのであったが、単なる開業日が3月10日という語呂合わせだった。がものは考えようで看板を見るだけで俳人種田山頭火を思い出させてくれることはありがたかった。前置きはこれくらいにして本題の俳人種田山頭火の話に移ろう。
中高の国語便覧に出てくるこの面構えに見覚えのある人もいるだろう。種田山頭火は大正から昭和にかけて日本各地を托鉢をしながら放浪し、俳句の重要素である季語や定型も関係なく自由律の俳句を約8万詠んだとされ、そのうち1万2千句を残した異色の俳人である。彼の作品をもはや俳句ではないと評する人もいるが、山頭火はしっかりとした俳句を作ることに飽き足らず自由律俳句を作った人物であり、ストレートな言い回しが私は好きである。今の彼岸桜が咲く沖縄なら「さくらさくら さくさくら ちるさくら」を思い浮かべたりもする。彼の俳句の中で常に私が身近に感じる句は『昼寝さめてどちらを見ても山』である。どこか野や原で昼寝をしていた時の句であろう。昼寝から目覚めた山頭火が寝ぼけて「ここはどこ??」となり我に返りそういえば昼寝していたんだとほのぼのとしてる風情が伝わってくる俳句であるが、レッスンで寝ている間に連れてこられた乳児が目覚め「あれっ???ここは???」という表情を浮かべ「あっ、先生だ」と理解する様子がこの句と重なるのである。
さて1882年本名種田正一こと種田山頭火は自宅の敷地が800坪を有する大地主の6代目父竹治郎と母フサの長男として誕生した。父は村会議員や助役を務めた名士であったが複数の妾を持ち芸者遊びに明け暮れ、その放蕩に心を痛めまた結核を患っていた母が33歳の若さで屋敷の深井戸に身を投げ命を絶った。日曜の昼ということもあり子供達が家に居たため「猫が落ちた。子供らはあっちにいけ」と追い払われたものの山頭火は母を引き上げる大人たちの足の間から母の変わり果てた姿を見てしまい、生涯癒されぬ深い心の傷を負ったのである。それだけではなく彼には次々不運が重なっていく。東京専門学校今の早稲田大学に進学するも精神衰弱のため2年で故郷に帰るも実家はすでに屋敷の一部を切り売りし経済的に困窮を極め大種田と呼ばれていた大きな屋台骨が揺るいでいた。
父竹次郎は再起を図るため近隣の酒造業を買取り酒造業を開始するも2年連続の酒仕込みが腐敗し無惨にも家業である酒造業は失敗に終わった。しかし父竹次郎は莫大な借金を親戚に肩代わりさせ妾と共に逃げ、山頭火の兄弟は離散。結婚し長男まで儲けた山頭火一家も夜逃げ同然で友人を頼り熊本へ。山頭火は家が傾きかけていても俳句と酒にうつつを抜かしていたがmノットも被害を被ったのは幼い頃に養子に出されていた弟次郎である。酒造りをするために養子先から家に呼び戻され酒造業が破産すると家を追い出された。いく当てのない次郎は兄の山頭火の家に身を寄せるも同居が上手くいかず、借金苦に心を痛め山口に帰り自死してしまう。身内から二人もの自殺者を出してしまった衝撃は山頭火に取り辛い体験であったようでさらに酒に溺れてしまったようである。
その後山頭火は妻子を熊本に残し、俳句への道が諦めきれず上京し日雇いや図書館での仕事をするも1923年9月1日に発生した関東大震災により焼け出された。彼の不運はまだ続く憲兵らによる社会主義者の弾圧が始まり山頭火は刑務所に収容され、死刑執行の危機が迫る体験もしている。ここまでくると不運続きであるがろくに働かず家族を顧みることもせず俳句と酒に溺れたことを考えると自業自得、自分で蒔いた種は自ら刈るべきだとも思える。ここで私のアンテナが動くのであるがこの山頭火の行動は山頭火の父竹次郎と酷似している。以前読んだ記事の中に伝承原理という言葉があり親の行いは気付かぬうちに子供にも影響を及ぼすという意味合いだったような気がする。正しく父と同じように家族を顧みることなく自らの欲望に身を任せ、自らしでかしたことに責任を取らずということは気付かぬうちに父息子の間に受け継がれている負の伝承原理ではないだろうか。
今回の種田山頭火から学ぶことは親の生き様が子供に影響を及ぼすということである。しかしこの伝承原理というものはマイナス的なことばかりではなくプラスな行動を親がとれば子供達に良いことが受け継がれていくということである。これまでの偉人の親子関係を考察してきたがこの伝承原理というものは理にかなっていると感じることが多々ある。子は親の後ろ姿を見て成長する、子は親を写す鏡という言葉からも親の行動や考え方を見聞きしている子供たちはその要素を持ち成長するということである。私は祖母からも両親からも先祖の余沢を持って自らが生かされていることを肝に銘じよと教えられてきた。そして父にはその余沢を築き子供にその恩恵を授けるのが親の役目とも言われた。昔から家業は三代で潰れるなどと言われるが我が父は余沢がなければ家業どころか家が潰れことも心に刻み、まず自分自身の子供へと余沢を繋ごうと各世代が行えばその家は永遠の繁栄がもたらされるような気がするのだと語っていた。その言葉を胸に社会貢献も含めて私は子供達のために自分自身を活かそうと考えている。
今回取り上げた種田山頭火とその父竹次郎の生き方は私の考えとは正反対に位置しているが、彼らもまた現代に生きる私たちにその生き方や文学を残し学ぶ機会を与えてくれている。種田山頭火が自らの人生を通して何を語っているのかを読み解くとさらに人生の学びとなることだろう。
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