偉人『斎藤茂吉』
斎藤茂吉といえば短歌人として中学高校で学習した「死にたまふ母」の連作が頭をよぎるのであるが、それよりも私の場合は中学の頃に読んだ斎藤茂吉の次男北杜夫氏の『どくとるマンボウ航海記』を皮切りに読んだシリーズが印象深い。そして彼の長男であるモタ先生こと斎藤茂太氏の精神科医としての名言を綴った『心が晴れる言葉』『気持ちの整理』などの著作も面白いと感じたものである。また孫は随筆家の斎藤由香氏とくれば齋藤茂吉の文学的伝承が一族の中に流れていると言っても良いだろう。次男北杜夫氏は父の仕事の割合を医師として1割、歌人としては9割の比重で人生を送ったと話していた。しかし彼の人生を紐解けば解くほどかなり複雑なものを抱えていた人物であることが理解できた。今回は斎藤茂吉を通して人間を複雑にする一因子を考えてみる。
1882年5月14日山形県の南村山郡金瓶にて父守屋伝右衛門熊次郎と母いくの三男として誕生。茂吉は尋常高等小学校を卒業後、経済的な理由で進学することができず画家や寺に入ることを考えていた。しかし東京・浅草で青山脳病院を開院している同郷の齋藤紀一の養子候補として引き取られることになった。将来は医師となり病院の跡を継がなくてはならないという立場である。14歳の少年に課せられたものはあまりにも重いものである。しかし当の本人がそのプレッシャーを感じるのはいつであっただろう。養子候補ということで大事に扱われたのではと考えられるだろうが、実は単なる書生のような立場に過ぎなかった。つまり医師になることができなけえれば別の養子候補を探すといったものだったに違いない。その期待に応えて茂吉は医師になることができたのであるが、無事に医師になり23歳で齋藤家の養子にそして31歳で斎藤紀一の次女輝子と結婚し婿養子の位置を射止めた。
14歳の少年が見知らぬ土地で書生のように扱われ、医師になるためにもう勉強しなければならなかった事を我が子に置き換えて想像するだけで胸の奥が痛くなる。そして斎藤紀一による茂吉の一挙手一投足を見抜く様子は茂吉を高く評価すると共に、後継にするために茂吉の淡い恋心にまで終止符を打たせることになった。この時の思いを短歌にしている。
『この心葬り果てんと秀の光る錐を畳にさしけるかも』
茂吉は齋藤家に出入りする使用人である おひろという女性に恋をした。しかし茂吉は齋藤家の次女輝子の婚約者であり婿養子に入るため、この恋を諦めなければならないと周囲の者から二人は引き離される結果となった。その時に詠んだのが先の短歌である。
この短歌は茂吉がかなり苦悩した思いが綴られている。『この心葬り果てんと』では完全に跡形もなく自分の心の中からほむってしまおうと読むことができ、キリの穂先を畳に刺してしまうほどの思いは好きな人を諦めるか、医師としての確たるものを得られる婿養子の道を選ぶかで悩みに悩んだ様子が窺い知れる。しかし彼は愛ではなく確実な医師となり病院を継ぐ道を選択したのである。というよりもそうせざる得なかったのではないだろうか。もし打算的な出世に目が眩むことがあったとすれば畳に霧を刺すというような行動をとることもなかったであろう。一方でそのキリを畳に刺すという行動がおひろへの思いに対する決別の行動なのか、はたまたなぜそのような行動をしてしまったのかと悔やまれる詠嘆なのか茂吉に尋ねたいところではあるが、私は後に彼が詠んだ母への思いや愛人となる弟子のふさこへの恋文を読むとやはり茂吉には純粋に人を思う気持ちが存在していたと考える。
キリを人知れず誰の目にもつかない所で畳にさす行動はその後の彼の人生に大きな影響を与えている。つまり恋人との思いを断ち切るために友人に相談してもよし、外でやけ酒を飲んでもよし、または思春期の男子高校生のように部屋の壁に穴を開けても良いわけである。しかし彼は誰にも悟られず知られずその行動を選んだわけである。家の近所の人や友人に打ち明けようものなら直ぐさま齋藤家の人々の耳に入ったであろう。それができなからこのような行動に出たのではないだろうか。つまり人として人一人愛せる自由もなく、このやり場のない感情を悟られてはならぬ状況に追い込まれ、愛する人との決別や自分の弱さ、斎藤家に対しての憤りのようなものもあったかも知れぬ。そして養子としての立場の弱さが大きな斎藤家という家を前に自分の素直な思いや率直な意見を吐露することもできない複雑な状況下に追い込まれていった。その環境は長く続き婿養子としての弱い立場が長年続き、やがて本音と建前、内と外という複雑極まりない感情を募らせて複雑な茂吉の性格が作られていったのではないだろうか。
上記のことを裏付ける証言がいくつも残っている。彼の性格が語られる時往々にして患者に対しては理性的で外面が大変良いが、家族や弟子に対しては大変厳しく時には家庭内暴力があったとされている。この父の複雑極まりない行動や性格を次男の北杜夫氏は、子供心に父の存在が自分の中で苦しいものになっていた時期があると語っている。
今回の斎藤茂吉から学ぶことは子供に感情や行動を押し殺させることをせず、思いや考え感じていることはどんなことでも吐露させる場所や時間は大変重要で必要なことである。しかしそれが暴言や暴力的なものにしてはならず、幼い頃から静かなトーンで優しい声で思いを吐き出せる環境を親は作るべきである。また一方的な強制によってなんでも親が決定づけるのは大変危険なことであるが、なんでも自由に子供に決定権を与えることもまた違う。子供が大きく道を逸れないような範囲内で子供に決定権を与えることが重要であり、子供の意見があらぬ方向へ行く時に親は諭さねければならない。また本音と建前を使いわけることを子供に教えてはならなず、教えてしまうと取り繕うことを覚えてしまうからだ。つまり本音と建前は人生経験を積んだ大人の特権であり優しさでなければならないからである。斎藤茂吉は14歳の少年期に生まれ故郷や親から離れ甘えることもできない他人様の家に入り、物言えぬ環境で耐え忍んで大きなプレッシャーを感じながら医師となることを叶え生活してきたのである。どれだけの思いを呑み込んできたのであろう。山形の純朴な少年が複雑極まりない人格形成に至ったのは仕方のないことであった。
次回はそんな複雑な人格を持つ斎藤茂吉から精神科医として多くの生きる勇気の言葉を紡ぎ出した長男斎藤茂太氏について記事を予定している。
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