偉人『桂由美』

頭にターバンを巻いた姿が印象的な日本のブライダル衣装を牽引したデザイナー桂由美氏は、日本国内でウェディングドレスを着用し式を挙げた新婦が3%しかいない時代に店を開店した。和装での神前式が主流の時代にデパートへの出店を願うも叶わず、自らの店を開店させたが従業員の給料を払うために実家の洋裁学校で講師をしながら収入を得て何とか店を維持していた。そうしながら苦節10年以上を自らの信念に従いウェディングドレスを作り続けた人物である。

今回は彼女の94年もの人生で華やかなドレスを作り続け新郎新婦を主役に引き立てる煌びやかな時代とその対極にある軍国主義の中で幼少期から15歳までの多感な時期を過ごした人生にフォーカスし、彼女がなぜ人の幸せを彩る世界に飛び込んだのかを記事にする。

1930年(昭和5年)4月24日東京・江戸川で生まれた。父は逓信省の官吏、母は要塞学校(現在の東京文化デザイン専門学校)を立ち上げた人物である。幼少期は夢見る夢子ちゃんでおとぎ話や美しいもの洋風的なものに憧れを抱いていた。とにかく絵本のおとぎ話を好み日曜になると父にせがんで絵本を買ってもらい、母はその絵本代で家が傾くのではないかと冗談紛れの発言をしていたという。またシンデレラストーリーが大好きで駅前で声に出してストーリーを語っていると、字の読めない年齢の子供が絵本を読んでいると見物人に囲まれる始末であった。実際に文字を読んでいたのではなく絵本を多読していたため絵を見ているだけでストーリーを話すことができたのである。現代でも絵本を多読している3、4歳の子供が絵を見ただけで物語を話すことはよくあることであるが、絵本をただ苦していない子供の場合は絵を見ていても絵から受ける印象を言葉にすることは難しい。ご自身のお子さんが絵を見ながら物語を唱えることができるか否かで絵本読みが体の中に染み込んでいるのかが容易にわかる。つまり桂由美の幼少期は母が絵本代で家が傾くと言ったことは大袈裟ではなく、絵本を多く与えていたことは明らかである。そして彼女が多くのウェディングドレスを創作・製作できたのはこの幼少期に絵本の世界にどっぷりと浸潤していたからだと考えている。つまり絵本を多読するうちに憧れていた世界を絵本で学ぶという昔取った杵柄がウェディングドレスの世界に飛び込ませる糸口だったのではないだろうか。私もシンデレラのガラスの靴シーンを真似し母のヒールに足を突っ込んだ経験はあるがそれ以上のものは生まれていない。これが世界を席巻した人物と小粒な人間の差なのであろう。

そんな夢を見る少女が歴史の翻弄されていく。彼女は幼くして戦争という軍国主義の世の中にのみ込まれ特攻隊に憧れを抱いていった。そしておとぎ話に憧れていた彼女でもお国のために戦う特攻隊員に憧れなぜ女性が特攻隊になれないのかを血書を用いて手紙にしたため憧れていた海軍トップに送ったのである。当時のことを振り返り彼女は「日本が負けるなんて想像もしておらず、日本は絶対で間違っているのはアメリカや他の国で彼らをやっつけないと世の中が良くならないと思っていた。」「日本は素晴らしい国だと教え込まれ、靖国神社の前を通る時には帽子を取り一礼する純粋な子供だった」と語っている。そして戦火が拡大し太平洋戦争が開戦される頃には思春期を迎えた女学生になっていた。幸い彼女の住む小岩は戦禍を免れていたが1945年3月10日の東京大空襲で東京は多くの人が亡くなり、15歳になっていた彼女は学校の級長を務めていたためどうしても学校や友人のことが気になり母の精子を振り払って学校へと向かったという。その道中でマネキンが転がる様子だと思って歩いていると馬の死骸を見た瞬間にマネキンだと思っていたのが実は人間であることに気づきその場で腰を抜かしたのだという。恐ろしさに一気に襲われ彼女は戦争の悲惨さを実体験することになった。あれほど王女様のようなドレスを身に纏い、洋風の家に住んで洒落た生活をしたいと夢見ていた少女は一気に美しさが皆無の暗い世の中に押し込まれたのである。敗戦後もその世界は続き彼女が心の解放を求めたのが演劇であった。

軍国主義に染まり日本が絶対だと思っていた自信を日本のという形で惨たらしいものを見て、恐怖の体験をした多感な少女は現実逃避できる場所を演劇に求めた理由をこう語っている。「サーベルを差し颯爽と歩いていた将校が敗戦した途端ヨレヨレの汚い軍服を着ている姿や闇市が立ち並ぶ雑然とした汚い町、何よりアメリカ兵に媚を売る女性たちの姿に耐えられず、演劇部に入れば帰宅する時間が遅くなり見窄らしい将校の姿や闇市を見なくてすむと思い、共立で演劇の世界に没頭するようになった」

そして彼女は共立での学生生活の10年を演劇部の部長を務めた。そしてこのようにも語っている。「相当な時間を私は逃げていた。世の中の汚い部分から目を背け逃げて現実とは違う美しい世界や夢の世界を作り出していたのです」と。その後彼女は大学生活でファッションの歴史を学びデザイナーになることを決意する。しかし彼女は不器用であり、小・中学校時代体育と裁縫の成績が悪く教師から「あなたはお母さんの後を継ぐのでしょう。あなたがそんなんでは困るでしょう。」と言われると、母には多くの弟子がいるのになぜ私が後を継がなければならないのかと反発する心しかなったという。そんな当時の彼女が日本でのウェディングドレスの先駆者に誰がなれようと考えていたであろうか。実際にドレスを縫う技術は乏しかったにせよ想像してデザインするセンスはあり、苦手な縫い仕事はできる誰かに任せればいいのだと気付き彼女はウェディングドレスのデザインを手がけることに専念したのである。

日本でのウェディングドレスの普及が彼女の活躍があることは誰もが承知していることであろうが、そのドレスも日本の和紙を取り入れたり、魚の鱗を取り入れた変わり種のドレスもありその発想には驚きを隠せない。そして日本人としてのアイデンティティを大切にした彼女はドレスにだけ目を向けていただけではなく和装にも活躍の幅を広げている。つまり彼女は自分自身を情熱で動かし、彼女の下で手となり足となり働くスタッフもまた情熱持ち働き、両者の情熱でYUMI KATSURA は世界的に評価されたのであろう。情熱は人を動かすというがまさにその言葉の通りとなった成功例である。

桂由美は自らが経験した戦争体験で暗く恐ろしいものであり華やかさや色が一瞬にして消滅すること、そして戦争によってファッションどころではなくなることを知っているからこそロシアがウクライナ侵攻をしたことにファッション界のリーダーとして苦言を呈している。そして人間が生まれた時赤ちゃんには白を着せ、第2の人生のウェディングでは白いドレスを着る。人の幸せの象徴は純白で戦争の暗さや醜さとは真逆なのだとも語っている。軍国主義の少女であったと公言している彼女だからこそ、第2の人生のスタートを切る新郎新婦、その両親家族の幸せへの願いを衣裳に託すことができたのだと考えている。

『老いたる馬は路を忘れず』という言葉はまさに彼女のことを言い当てている。経験を積んできた者は自分が進むべき道を間違えることはないという意味であるが、彼女は常に『心棒を外さない』と心に誓い歩んできたようであるから彼女なりのほんものが見えていたのであろう。

彼女の人生は幼少期からの絵本を多読する時代に始まり、戦争というものの真実を経験し人間に必要なものとは何かを見抜いて70年以上の年月を人の幸せのために費やしたのである。無くなる数日前までウェディングドレスに関わり死ぬ間際まで発動し天寿を全うした数少ない人物である。これからの時代を担う子供たちにも自分を最大限に活かす人生を歩んでほしいものだ。

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