偉人『赤松良子』

来週11日は母の日である。いわゆる日本人の女性に人間としての権利を獲得することに尽力をした女性官僚赤松良子氏を取り上げる。彼女は1985年の男女雇用機会均等法の成立に尽力し、女性の地位向上させた立役者と言われる女性官僚の草分け的存在である。細川・羽田内閣では民間人として文部大臣を務め、その後も女性が直面する問題に情熱的に取り組んだ人物でもある。彼女なくしては日本の女性が社会に出て活躍する日はなかったであろう。

1929年(昭和4年)8月24日大阪・天王寺区に生まれる。父赤松麟作は画家黒田清輝に師事した西洋画壇の大物であり、50歳を過ぎての娘の誕生に喜び彼女を溺愛した。幼い頃はじっとしていない活発な少女で父の仕事場である光注ぐアトリエを遊び場としていながらも父の仕事を邪魔しないように心得ている賢い子供であったようである。当時芝居ごっこを楽しんでいた時リア王役をしていた良子が「リア王の冠がない」というと父が厚紙と金色の絵の具で光り輝く王冠を作ったという。

また母は家が貧しく小学校も満足に出ていないため娘が上級学校に進むことを大変喜んでおり、娘良子がやりたいことをなんでもさせてくれ流母親でそのことが母の生きがいになっていたようである。とにかく娘良子を可愛がる両親で彼女はのびのびと成長したのである。

そのような両親のもと自由に育った良子は男児に混じり自転車で走り回るために「けったいな子。女のくせして自転車を乗り回して威張ってるやないか」と批判めいた言葉を浴びせられ育ったという。つまり家の中では両親の庇護のもと自由で活発に行動することを容認されていたが、一歩外に出るのその快活さが誹謗中傷の的になったのである。その当時から彼女は「女性のくせに」という言葉が嫌いであり、彼女が人生をかけて貫き戦った所以がその幼き頃に浴びせ掛けられた原点なのである。

赤松良子が育った戦前の日本は女性が男性よりも虐げられた時代であり、何をするにも女性が差別されていた時代である。参政権もなければ女性が権利を主張することすらできずその場所もない。財産の所有権もなければ、働くにしても夫の承認がなければ仕事にすら就けない、また夫の暴力を振るわれても耐え忍ぶしか、夫から逃げても夫が警察に届ければ警察が妻を見つけ出し夫の元に戻される、夫婦の離婚がたとえ成立しても子供を引き取ることすら女性にはできないという社会であった。つまり女性を一人前の人間として扱われていなかったのが赤松良子が生まれ育った15歳までの日本社会である。

皮肉にも日本女性が一人の人間として扱われたのは戦後の敗戦国としての立場でアメリカの元帥であるマッカーサーが真っ先にやったことである。日本の女性に参政権を与えると戦争反対を唱えるようになるであろうとの考えのもとであった。日本人は戦争というもので大きな被害を他国へ撒き散らしただけでなく自国にも被害を与え、奇しくも自国の不幸の上に日本女性のしゃき的権を与えられたのである。80年前の日本では女性差別がまかり通っている時代であり、女性自体が差別されているという意識すらなかったのである。そんな中で自由に女児が好きなように偏見や差別を両親から一切感じることなく成長することができたことが、赤松良子を女性の地位向上の立役者として育てるべき人物として育ったのではないだろうかとさえ感じてしまう。

良子は幼い頃家の向かいに住む働く女性に体操憧れていたそうである。そして16歳の時に女性参政権がないのはなぜかと不思議に思っていた。英語を津田塾専門学校で学びその後東京大学法学部に入学し労働省に入省した。女性というだけで婦人少年局に配属させられ、同期の男性が次々と部署を変え出世していく中自分自身は女性というだけで婦人少年局に留め置かれたことを不満に思い上に掛け合うも相手にされなかった。赤松氏は40代を迎える段階で「今私がここで人生最後だったら死んでも死に切れない」と語り自分自身の成し遂げたものとして後に残る功績など何一つなかった。しかし時代の潮流が彼女の人生を後押しすることになったのである。

1979年国際連合第34回総会で女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約が採択され、日本もまた男女が平等に扱われる法律の制定に迫られることになった。赤松良子は53歳で労働省の夫人少年局の局長となりその法案の素案を作ることになったのである。赤松氏は若い頃から願い続けてきたことが自分の人生の局面において巡り巡ってきたとしてそのチャンスを掴もう法案成立に努力をした。ところがその法案に反対をしていたのが日本の経済界である。経済界は男女の差別によって成り立っているとして経済界は男女雇用機会均等法に対して反対声明を出そうとしていた。赤松良子はそんなことをしたら世界的に見て日本の立場を悪くし日本経済に水を差すとして経済界に反対声明を出すことのないようにと根回しをした。

1985年に成立した男女雇用機会均等法は赤松良子の思い描いた理想のものにはならなかったものの、ある意味完璧なものではないにしろ今はそれで発進するしかないと苦渋の決断をし、その先の時代に議論し良い方向へ変化することに望みをかけたのである。今回赤松良子の生き方から学ぶこととすれば、他人からの批判を受けたにせよ両親からの愛情を一身に受けて強い信念を持てば社会的に活躍することができる人間に成長することができるということ尚且つ彼女の功績である男女雇用機会均等法案成立からは、高い目標や理想とかけ離れてしまったことが子供のを育て導くことと似ていることに気付くことができる。大きな法案も子供の成長も高い目標を掲げさせ上手くいくこともあれば、今できる足元の小さなことから確実に取り組ませできることを積み重ねあげ、ワンステップごとに掲げた小さな目標をクリアーさせることで徐々に大きな目標を射程内に入れていき実現することができることを赤松良子という人物の生き方から学ぶことができるものだ。彼女のように荒波に立ち向かう強い女性や母親ばかりではないがそれでも小さなことを積み重ねていけば結果はついてくる。今できることをするということが重要なのである。

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