偉人『ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ』
今回取り上げるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは前回の偉人『ウイリアム・モリス』と親交があったことは軽く記したが(関連記事はこちら)、今回は美人画の名手として才能があり、絵画だけでなく詩にも才能がありながら二刀流をうまく使いこのせず、身から出た錆で人生の終わりは酷いものであった彼の人生の転落がどこに原因があったのかを紐解いてみる。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは1828年5月12日、ロンドンのチャールズ・ストリートでイタリア移民の父ガブリエーレ・ロセッティと母フランチェス・ポリドリの四人兄弟姉妹の長男として誕生。家庭内では英語とイタリア語が飛び交うバイリンガル環境があり、父ガブリエーレ・ロセッティはイタリアナポリの出身で詩人であり、ダンテ研究者として『神曲』の政治的解釈に挑んだ独自の学説でも注目を集め、ナポレオン政権下で自由主義的な思想を持っていたがナポレオン失脚後、保守的なブルボン王政下で弾圧を受けイギリスへ亡命したのである。イギリスへ来たからはキングス・カレッジ・ロンドンでイタリア語やイタリア文学を教えイタリア文化の紹介に尽力し他人物である。ロセッティの名前にダンテとついているのは父がダンテ研究者でダンテ・アリギエーリから取られたものであり、ロセッティはその名前に強い自己意識と詩的使命感を持ってい区ことになるのである。つまりロセッティが詩に深い造詣があるのは父が深く関係していることはいうまでもない。
父ガブリエーレは厳格な学者秦野人物でイタリアの自由主義運動の支持者であり、英国に亡命後も文学・政治への情熱を失わず、ロンドンでイタリア語教師や学者として活躍する一方息子ロセッティには、ダンテやペトラルカの詩、政治思想、象徴主義的な文学世界を教え込み、ロセッティに対して高い知的期待をかけていたと言われている。ロセッティ自身も後年詩の中で「ダンテ的世界観」に触れていることから父の影響は非常に深いものだった。
一方母フランチェス・ポリドリの父もイタリア移民の詩人で翻訳家であった。母はイギリス人で彼女自身はイギリス生まれであったがイタリアへの誇りを持ち、教育を確りと受けた女性であった。彼女の兄のジョン・ウィリアム・ポリドリは、有名な『吸血鬼(The Vampyre)』の著者でバイロン卿の秘書でもあった。つまり父も母も文化的そように恵まれた環境で育った女性だったのだ。
そんな母のフランチェスは父ガブリエーレが厳格だったため穏やかで献身的な母親であり、子供達に英語教育、読書習慣、信仰心、そして道徳的規範を家庭で教え、母を通じてロセッティはイギリス的な精神性も吸収していく。母フランチェスはいち早く息子ロセッティの繊細な感受性に気づき芸術的才能を理解し抑圧せずむしろ見守るような育て方をし、息子にとって心の拠り所となりロセッティが精神的に不安定になった晩年にも母は彼を気遣い支えようとしていた。
そんな母フランチェスは心温かな母親としてロセッティだけではなく、他の弟姉妹に対しても同様な教育方針で育て上げている。詩人で弟ウィリアム・マイケル・ロセッティは評論家となり、妹は詩人クリスティーナ・ロセッティ、姉マリアがいる。
ロセッティの育った家庭は小さな芸術サロンという文化的な環境で父は詩やロンドンにいながらイタリアの政治について語り、母は読書の習慣や道徳や宗教を教え、イタリア文学・古典・美術書が並び、詩や物語、歴史や哲学の朗読が日常的に行われていた。子供達の高い教育や特文学的素養や語学への関心は家庭力が大きく、母の存在が最も大きいと言えるだろう。つまり幼くして文化的で知的な刺激に溢れた家庭環境の中で育ったからこそロセッティの感受性、想像力、芸術性の基礎がこの時期にしっかりと育まれました。
しかしロセッティは空想的で感受性が鋭い性格なため物語や象徴的ものに感銘を受けすぎる一面もあった。ダンテ・アリギエーリの『神曲』**に触れ『新生』の中で語られるベアトリーチェとの別れの場面で号泣したと逸話が残っている。幼いながら「死と愛」「失われた理想」に心を動かされた体験が後の作品『ベアタ・ベアトリクス』に深く繋がっているのであろう。感受性が強いという言葉では足りないくらいの繊細な心と豊かな想像力が彼を詩と絵の世界を結びつけ、そこには他者が介在できないほどの天性の表現力があり現実離れした夢想を彼に持たせたのであろう。空想と現実の間にいるよりも常に空想し続け孤独を愛し、内向的で現実の世界に身を置くことが少なかった子供時代であった。
つまり彼が芸術の道を歩み始めた後に人間性を疑われるような行動を起こしたのは、物語の中で生きることを実践し続け現実の世界での理性や人間の生き方を学ぶことが希薄すぎたとも捉えることができる。妻がいるにも関わらずモデルとの関係を隠さず、妻が子供を死産して心を病んでも素知らぬ振り、その妻が死んで初めて悔やみその時に記した詩を棺にいれ愛を誓うも1年とたたないうちに新しい恋人を見つけ、それは多めに見ても妻の棺に入れた詩の出来に墓を他者に掘り起こさせて作品を出版し、自身を尊敬していたウィリアム・モリスの妻と関係を持ち彼の家にまで住むという人間性を疑う行動をなん度も繰り返している。
どうにもこうにも理解し難いのが芸術家であるが女性に翻弄されることを想定しない、どこか間抜けな部分が見えるのもロセッティの魅力なのかもしれない。
母親は教育や道徳心宗教心を教えていたはずであるが、ロセッティの場合は芸術的感性と人としての理性という教育のバランスが大きく崩れていたのであろう。そして子供が息子の場合には父親が社会人として生き方や女性との関わり、そして母親が話すことが難しい性的なことについては導くべきであり父親の力が必要になる。おそらくロセッティの父は厳格な学者であるためこの手の話をしてこなかったのであろう。そうでなければいかに芸術に心酔していたからといえどもあれほど身を持ち崩すほどのことはしなかったであろう。
父親の役目がいかに色々な側面があり重要なのかもロセッティの人生を考えれば新たな発見があるものだ。
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