偉人『ノーマン・ボーローグ』

『ノーマン・ボーローグ』この名前を初めて目にした耳にしたという人は多いであろう。「緑の革命」の父と呼ばれる彼は高収量で病気に強い小麦の品種を開発し、発展途上国(特にメキシコ、インド、パキスタン)に導入し、食料生産量を飛躍的に増加させ飢餓による大量死を防いだとして1970年にノーベル平和賞を受賞したアメリカの農学者である。

ノーマン・ボーローグは1914年3月25日、アメリカのアイオワ州にある小さな農村サウデのノルウェー系移民の家庭の長男として生まれた。祖父母がヨーロッパの食糧難を恐れてアメリカに移住し農園開拓をした家柄である。

7歳から19歳まで彼は家族が経営する約43ヘクタールの農場でトウモロコシ、オーツ麦、チモシーの栽培を手伝い、牛、豚、鶏の飼育も手伝った。彼が病気に強く、高収量な小麦の品種を開発やトウモロコシの改良を行い発展途上国や世界的に多くの人々を飢餓から救ったと言われる大元はこの子供の頃の農園での働きが一つの理由である。

そしてもう二つは両親の教育に対する理解と彼の祖父ネルス・ボルローグの「のちに腹を満たしたければ、今頭を満たせ」という言葉が彼の学びの土台形成となった。祖父はノルウェーから開拓移民としてアメリカに移り住んできたが、教育の重要性を知る人物でありその祖父によって育てられた父は学ぶことの重要性を理解し子供の教育にあたった。当時としては珍しく貧しい家庭のそれも田舎の子供が高校進学をさせてもらえたのも両親と祖父が彼の学業道を奨励したと言っても良い。

そして高校でフットボールとレスリングの選手としても活躍していた彼にはもう一人忘れてはならない人物がいる。レスリングの選手としても活躍していた頃に出会ったコーチのデーブ・バーテルマである。彼は常にノーマン・ボーローグに「105%を出せ」と言い続けていたという。体格が小柄であったノーマン・ボーローグが粘り強さと集中力を養ったのはこのコーチのお陰なのである。

ノーマン・ボーローグを語るに世界恐慌について知る必要がある。上記の秋元英一氏の本を一読されると良いであろう。

1929年に起きた世界恐慌を15歳で経験したノーマン・ボーローグは貧困や飢餓を目の当たりにしてきた。学生の彼も世界恐慌の煽りを受けレストランで皿洗いをしながら生活費を稼ぎ苦学生として働き学業に励んだ。大学で森林学を専攻し植物病理学を深めていく。大学時代にはホームレスの人々が食料を求める姿を見て食料問題への意識を深くしたと言われ、彼の物静かで実直な性格が弱き人々のために自分自身は何をなすべきかを考える様になったのではないだろうか。

私が考えるに彼が緑の革命者として偉業を成し遂げることができたのは、幼い頃の家業を手伝う働き手としての経験と学びを全うさせた両親と祖父の理解、そして何よりも自分自身が自然との共生することを望み、そして食料の大切さを肌で感じる日々を実体験したからだろうと考える。つまり幼い頃から大学生までの多感な時期の経験が、実践的な農学者や科学者として彼を育て上げたのであろう。しかし人間はどんなに高い志を持ってしても失敗を起こしてしまう。彼もまた偉業の裏では大きな失敗をし問題に直面している。

緑の革命は大きな成功を収める一方でいくつかの課題や批判も受けている。高収量品種の栽培は大量の水と化学肥料の投入を必要とし、種子、肥料、灌漑設備などへの初期投資が必要であり、貧しい農民にはその負担が大きく農民間の所得格差が拡大する要因となった。また地域に根ざした伝統的な在来品種が失われ特定の品種への依存は遺伝的多様性の喪失を招くという懸念も示された。他にも水質汚染や土壌の劣化といった環境問題が指摘された。環境主義者からの批判に対して食料増産と環境保全のバランスの重要性も認識していた。彼は単に食料を増やすだけでなく、飢餓に苦しむ人々を救うという強い信念に基づいて行動していたのである。今となっては土壌汚染や環境破壊が深刻となりノーマン・ボーローグの活動にも間違いの点があったと認識せざる得ないが、彼は飢餓撲滅をどうにかしたい一心で『努力さえすれば道は開かれる』と活動した実践主義を貫いた人物である。

つまり子どもの頃に見た「干ばつ」「不作」「貧困」が、彼にとって「飢餓の恐ろしさ」を実感させる原体験となり後の飢餓撲滅への情熱に繋がったのである。彼の人生の進むべき道は幼い頃の印象の強い現実が根底にあったからである。科学の力で飢餓をなくすことができるという信念を持ち、静かで実直なノーマン・ボーローグは研究だけでなく現場主義を貫き農民とともに汗を流した。飢餓をなくすために活動した功績は現代の農業技術や国際開発に大きな影響を与えたばかりではなく、彼の存在がなければ今日の食糧事情はまったく違ったものになっていたに違いない。

そして我々日本人は彼の活動と功績の影には日本の小麦が関係していることを知っておく必要がある。緑の革命という活動は日本の小麦の品種「農林10号」を元に背丈が低く倒れにくい半矮性の小麦を開発したことにある。これによって病気に強く多収量の小麦の品種開発に成功し、メキシコの小麦生産量は劇的に増加し食料輸入国から輸出国へと転じた。また彼の活動は小麦だけでなく米やトウモロコシといった主要穀物の改良にも波及し、世界の食料供給を劇的に改善した。日本の技術が世界を救う一助になったのである。そんな技術を持っている日本がなぜ米騒動に陥っているのか・・・日本の農業はどうなっているのか、そして安いはずの飼料となるはずの古い米を高値で買っていることに疑問が生まれ、飼料が人間に回れば家畜などの飼育はどうなるのか・・・日本も近い将来飢餓という状況に追い込まれてしまうのか。親は現実をやはりしっかりと見て、日々子供達には食べ物の生産から流通、そして食卓に上がるまでをしっかりと教育する必要があるのではないだろうか。




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