偉人『ジョルジュ・ブラック』

今回取り上げるのは20世紀最大の画家と称されるパブロ・ルイス・ピカソが才能を認め、数年もの間制作を共にしたジョルジュ・ブラックを取り上げる。ジョルジュ・ブラックという名を知っているという人は美術に関心があるか、グラフィックに精通しているか、はたまた音楽関係者であろう。今回なぜ彼を取り上げたか、それは小学校2年生の生徒さんからのリクエストに応えるためである。生徒さんははこれまで夏休みの絵画コンクールで最優秀賞をとったことが無くどうしても取りたいというのだ。美術教師でもない絵心もない私に何ができるのかと言えばこんな画家がいるよと伝えることだけである。

では最優秀賞を手にしたい少年になにを伝えるか。西洋美術界はこれまでの写実的でアカデミックな絵画の世界から印象が現れ、色彩の革命フォービズム、そしてピカソやブラックがなしえたのが形態の革命キュビズムが現れ保守的であった美術界の考え方が多くのがからの手によって変革されたのである。こう描けば賞がもらえるという考え方ではなく、自分自身の描きたいものを描きたいように描くこと、そして世界的になをした芸術家たちがどのような考え方でその世界を極めたのかを先ず知ること、真似ること、感じることを経て自分らしさを表現してみてはどうであろうか。

アフリカ美術からキュビズムに到達したピカソの陰に隠れたもう一人のキュビズムの立役者ジョルジュ・ブラックはマチスやセザンヌを経てキュビズムに到達した。辿った道こそ違えども行き着いた場所であるキュビズムで互いに感化し道を極めた。

しかし社会的にはジョルジュ・ブラックはピカソの陰に隠れて20世紀のキュビズムを牽引したのはピカソであると思われがちであるが、ジョルジュ・ブラックがいなければキュビズムは美術史に残っていなかったであろう。つまりジョルジュ・ブラックが20世紀キュビズムの立役者なのである。彼は兵役任務に就いた戦時中に頭蓋骨に穴が開く重傷を負い、一時的に視力を完全に失う困難を乗り越えて、自分にしかできないことを突き詰め全力投球した人物である。名誉や名声を得ようとする考え方は微塵もなく、自分にしかできないことに視点を置き活躍した。その才能にピカソが一目置いていたのである。

1882年5月13日フランス・アルジャントゥイユの装飾芸術職とペンキ屋を営む家に誕生した。祖父と父の営む家業の装飾芸術職人の見習いをしながら装飾芸術の英才教育も受け、後にピカソが一目置いた芸術的発想はこの家業から受けたものである。また1897年15歳でル・アーヴルの高等美術学校のエコール・デ・ボザールの夜学で絵を学んだ。夜学といえば労働しながら学んだ苦学生のように思われるが、家業の装飾芸術の英才教育を受け、更に350年以上続く芸術家を輩出する名門の学校を卒業したジョルジュ・ブラックはキュビズムに進むべく一流の教育を家業と絵画学校の両方で受けたのである。

また父は装飾芸術職人として建築装飾や看板制作などの塗装職人でもあり、このような環境で育ったことが後の芸術的感覚や特に色彩や質感、素材へのこだわりに影響を与えたと考えられている。ピカソは無類の寂しがりやだったと言われ多くの画家らとアトリエで制作活動を行ってはいたが、ジョルジュ・ブラックとの共同制作活動は大きな意味を持っていた。当時の批評家や収集家が「作品を見てもピカソの作品か、ブラックの手によるものなのか、どちらが描いたのかわからなかった」と語るほどで二人は徹底して互いのスタイルに寄り添いながら制作し二人のスタイルは驚くほどに通っていたのである。晩年のインタビューでジョルジュ・ブラックは「私たちは兄弟のようだった」と語り、互いのアトリエを頻繁に行き来し、毎日のように会い意見を交わし、時にはキャンバスの前で一緒に描くことすらあった。共同作業のように別々のキャンバスでアートを創り出していたのである。

ジョルジュ・ブラックが第一次世界大戦に従軍してからはピカソとの共に刺激を与え合うことはできなくはなったが、戦後ジョルジュ・ブラックはピカソと距離を置いた。その理由についてジョルジュ・ブラックははっきりとは名言はしていないが、ピカソがジョルジュ・ブラックのアイデアを自分のものように扱う態度に不信感を抱いたとも言われている。しかしブラックは晩年までピカソのことを公然と批判することはなく、あくまで「互いに影響を与え合った時代」として心の中にしまっていた節もある。ピカソの芸術に対する執着は激しい情熱となるも家族に対してさえ冷たい仕打ちがある。そのことを考えればジョルジュ・ブラックのアイディアを自分のもののように発表するのもやぶさかではない。一方真逆の性格のジョルジュ・ブラックは目立つことが嫌いで控えめな性格であるがこと芸術に関しては深い思索を持ちピカソのような表現重視よりも探究することを重視する姿勢があった。ピカソが自分のアイディアを盗用しようともその先に自分らしさの追求をすることができた、だからこそめくじらを立てることなく自分の世界を邁進できたのではないだろうかと思うのである。職人が立ち止まることなく次々と技を磨き確固たるものを作り上げ進化していく様子とジョルジュ・ブラックが重なって見えるのは私だけだろうか。やはり彼は画家等よりも職人だったと言えるのではないだろうか。

では最後にピカソが一目置いた彼の才能とは何かを記しておこう。

絵画はキャンパスと絵の具さえあれば描けるものである。当時の画家の多くは皆そのようにして作品を生んでいた。しかしジョルジュ・ブラックは当時の画家らが想像し得ないような印刷物である新聞や壁紙をキャンバスに貼り付け描いたり、キャンバスに緻密な木目やステンシルを細かく描き入れそこから本題のモチーフを書き入れる、時には顔料に砂を混ぜてさまざまな表現を見出すことでキュビズム表現に磨きをかけていった。つまりピカソのような表現の奇抜さを狙う芸術家にとっては目から鱗であったに違いない。しかしジョルジュ・ブラックは才能がなく奇を衒うような発想でキュビズムを追求したのではなく、彼の育ってきた装飾芸術的発想と彼の内面にある考えや感性がキュビズムを深く追求させ表現に至った渡韓がる。

社会的な地位は芸術家ピカソに持っていかれたかもしれないが、ジョルジュ・ブラックは非常に几帳面で職人肌で内なるものを大切に表現し、寡黙で孤高的一面がありながらも友情に満ち共感力のある人物であった。社会的に地位や名誉があったとしても心持たされない人物もいれば、自分自身が立っている場所で真摯に向き合うものを大切にし、人生をかけることができる人物が人生の満足は高いのではないだろうか。最優秀賞を取るために一夜漬けのような解決方法を見出すよりも、自分自身が表現したいものを見つけ、その表現をどのようにするかを追求する方が己のためになるのではないだろうか。ジョルジュ・ブラックから学ぶことはこのことに尽きる。まだまだ若い子供らには時に悪戦苦闘し、紆余曲折しながら自らを磨くことも必要ではないだろうかと私は思うのである。

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