偉人『若山牧水』
「私は文学者になる」「文学で身を立てる」と固い決意をもって文学の道を歩んだのが若山牧水である。自然を愛し、旅を愛し、そして酒をこよなく愛し、人生の哀歓を題材に多くの短歌を残した歌人である。
牧水の本名若山繁(しげる)、1885年8月24日宮崎県日向市東郷町に生まれた。祖父健海は長崎で蘭学と西洋医学を学び、父立蔵も大阪で医学を学び医者となった。牧水は医者家系の長男として跡を継ぐことを周りから期待されながらも医学の道には進まず、後に明治・大正期を代表する歌人となった。牧水が文学の道へ進むことを理解したのは父立蔵だけであった。父は村でも尊敬される医者であり、個人の尊厳や自由を重んじていた人物だと言われている。牧水は父のことをこう記している。「その道つまり医術の技能は村ばかりか近卿の者を心服させるに十分であった。一点の邪気を持たぬ情けに厚い人であったが、惜しいかな意志が極めて弱かった」「私とは親子というよりも親しい友達というような関係を保っていた。長い間の私の不幸に対しても露ばかり怒るのでもなく恨むのでもなく、終始他に対して私を弁護愛撫することにのみつとめていた。」牧水にとって父立蔵は最後まで自らを信じ応援してくれた人物であった。
牧水誕生前の父立蔵は医師としての働きの裏に酒に手を出し、また新しい事業に手を出すして散財することが牧水の母マキにとっては頭の痛いことであったようだ。しかし牧水の誕生後父の放蕩も収まり生き方をガラリと変えたのである。のちに牧水は母が私を愛してくれたのは唯一の男児で末っ子ということもあろうが、それよりも牧水誕生後に父立蔵の身の改が大きな要因であったとも記している。温厚な父は家長でありながら親族を説き伏せて息子を文学の道に進めさせるほどの強さはなく、親族を説き伏せるのに時間を要する結果となった。しかし父は息子を励まし良き理解者として常に寄り添っていたのである。
一方母マキは信心深く、医者の妻として家を守る立場にあり家や世間体を重んじ守り抜こうとした厳しい一面を持つ愛情深い人物だった。母マキは延岡藩の士族で神参りの途中に若山家の桜木で脚半の紐を結び直していた所を、牧水の祖父母に見初められ身許を探し出され、遮二無二所望され嫁いできたという。つまり義父母のお眼鏡に叶い名士の嫁として家の存続を否が応でも考えなければならない立場に置かれた。家業を継ぐ息子を医者に育て上げなければならぬという重責を抱え、牧水を愛情深く育て教育にも力を注いだ。そんな思いで育てた息子が事もあろうに医学の道ではなく文学の道に進むと言い出したのだから、その衝撃は計り知れなかったようだ。そして牧水に対し大変手厳しく接したのである。
しかし牧水が自然を愛した人物に育てたのは母マキである。牧水は自分自身が山に入って遊んでいたのは母の影響で、母は山へ蕨を摘み、筍をもぎ、栗を拾う母の背を追いかけたと語っている。また幼い頃虫歯の痛みに耐えかねて泣く牧水を仕掛けた仕事を放り出してまで、背負い川へ行き魚釣りで息子の歯の痛みを紛らわそうとし、耐えず話しかけながら釣りに没頭できるようにしていたそうである。つまり牧水は子供の頃は母の愛情を一身に受け育ち、美しい故郷の山や川などの風景を目にして育つことで自然を堪能する礎を築いて育った。牧水の歌には幼き頃から愛してやまない故郷の風景が幾度も登場すし、旅に出かけてはその場所の自然を歌に詠んでいる。苦しい時、母に手厳しくされた時、幼少期に母と過ごした懐かしい山や川で過ごし母マキの姿を追いかけて旅をしていたのではないだろうか。
文学との出会いに話を移す。牧水と文学の出会いは延岡の文豪と呼ばれていた日吉昇が延岡高等小学校で彼の担任を務めたことが深く関係している。この高等小学校時代に牧水はありとあらゆる文学の登竜門とされる文壇に、和歌、俳句、詩、文章などを寄稿し次々に成果を納めている。牧水と名乗り出したのもこの時である。やがて医学の道に進むのか文学を追求するのかで悩みに悩み、実家へ早稲田大学に進学し文学の道を全うしたいのだと手紙を書き許しを請いた。
父立蔵は学問や文学への理解があり教養のある人物であったことから、息子の知的好奇心や文学的な資質を理解し息子の進学を認めた。一方母マキは医家の跡取りとして期待していた牧水が文学で身を立てると言い出したため強く反対した。親族の中で賛成したのは父だけでだった。しかし家長の言うことに従わざる得ない時代であり、父は親族を説き伏せ牧水は19歳で早稲田大学文学科高等予科へ入学することとなった。しかし学費を出したのは父ではなく、姉の夫(義理の兄)であった。父が強く進学させることを最初から言えなかったのは経済的理由もあったのだろう。
封建制度が強く残る時代、個人の尊厳よりも家が重んじられ、名家の家柄であれば尚更で息子を医者にし家を存続することが当然であった。また文学は不安定な職業であり道楽という見方も根強く、地方となれば文学者は「まともな職業」とは見られていなかったのだ。母マキが冷ややかな目を向けて文学者になることに反対し続けたのは、やはり息子にそのような不安定な職業に就かせるわけにはいかないということも理由の一つだったであろう。母マキが家の名誉や経済的安定を優先したことは当時としてはごくごく普通のことであった。伝統的な古い価値観で息子の文学志向を理解できなかったと見ることもできようが、母の息子に対する深い愛情があったことも忘れてはならない。
一方で父立蔵は比較的おおらかな性格で人の自由や個性を尊重する人物だった。牧水が短歌や文学に熱中しても「勉強している」として見守り、文学を好むのも息子の個性だと尊重していた。医者を継がず文学の道に進もうとする牧水を厳しくとがめなかったのは、息子の才能を早くから感じ取っていたからで、息子のしたいことをさせることが息子のためであり家のためになると家族を説き伏せたという。つまり父立蔵は息子の詩才が幼少期から際立っていることを知りその才能を見抜き、世間体よりも「この子にはこの子の道がある」と理解していたのだ。
牧水は父と母のことを短歌にしている。その歌を読めば当時の両親が牧水にどのように接していたのかがわかる。
『母をおもへば 我が家は玉のごとく 冷たし 父をおもへば 山のごとく 温かし』
母マキは心を鬼にして牧水を嗜めていた。志半ばの我が子を哀れと思う母親の思いと、人一倍これを許しては親族や世間に顔が立たないという感情との板挟みとなり、母も苦しんでいたに違いない。父立蔵が亡くなり東京へは戻らず年老いた母を安心させよという親族に詰め寄られても「東京へ戻りたい」と申し出た時の母の様子を牧水は歌にしている。『ものいわぬ 我を見守る 老母の顔 炉端の 与す暗さよ』と。父の存命中は玉のように冷たい母の表情も、老いた母は息子が何を考えているのか悲しい目で自分を見ていると詠んでいる。
牧水は母親への思いを断ち切ることができず妻を呼び寄せようと手紙も書いた。しかし身重の妻は動くことができず、牧水は文壇の仕事で1ヶ月旅をする。帰郷後長い旅の疲れと上京問題で心塞ぐ息子の様子に母マキは親族を説き伏せて上京を許した。
母が上京を許したと同時に牧水の歌は劇的な変化を見せ歌集を出し世間に認められた。帰京時にあれほど村人から後ろ指を刺され冷たい視線を向けられていた牧水が、村長をはじめとする多くの村人が彼の帰郷を盛大に祝い、祝宴を開いたのである。長年の夢であった文学で身を立て故郷に錦を飾った瞬間が訪れたのである。
牧水は43歳で肝硬変を患い亡くなった。一日に一升の酒を飲み干す毎日を送り、朝から酒を口にし生涯酒を手放すことができなかった。牧水にとり酒は孤独を癒すものであり、酒なしで創作活動を行うことができなかった。つまり医者の家系に生まれながら医者を目指さず、この道だと決めていた文学はなかなか花開かず、家族を持ったが定職につけず、旧知の中の石川啄木の「死にたくないのだ」と言われ奔走するも治療費の工面はできず彼を黄泉の国へと見送り、親族からは老いた母親のために郷里に留まれと言われ、大学の資金を援助した義理の兄からも詰め寄られ、帰郷すれば村人らが冷ややかな視線を浴びせられる。そのような状況で精神を病まず酒に慰めを見出し作品を詠み続けたの奇跡だったかもしれない。
つくづく思うのであるが子育てをするには両親が同じ方向を見ていることが望ましいが、同じ方向を向いていても両親間で考え方のズレが多少はあるものだ。よって両親は常に話し合いをし意見を言い合うことは重要なのだ。また絶対に忘れてはならないのが子供に対して常に目を注ぎ見守ることであ離、自分自身の思いで子供の人生に口を出さず、子供の意見に耳を貸し子供の幸せとは何かを考えることが重要であることを牧水の両親から学ぶことができる。もし牧水の両親がそれぞれの考え方について擦り合わせをしていれば、息子を酒に溺れさせ健康を害すようなことはなかったのではないだろうか。
父立蔵は「学問を広く学ぶもの」と考え息子の文学志向もある程度受け入れた。一方母は「学びは家を継ぐためのもの」と考えた。教育的受け止めとして学ぶことの重要性を両親ともに感じていたのだろうが、明らかに個人の尊重と家を重要視する考え方は大きな違いがある。だが母マキは年老いて息子の考え受け入れることができ、死の4年前に牧水の文学的成功を納めることができたのは幸いであった。親の思いとは真逆の行動を子供達がとった時に、親は自らの思いや考え方をかなぐり捨てて子供の話を聞くことができるかどうか、親の度量や器が試されることを肝に銘じておきたいものだ。
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