偉人『フリードリッヒ・フレーベル No.1』

1782年4月21日ドイツ・チューリンゲン地方のオーバーヴァイスバッハという小さな村でフリードリッヒ・フレーベルは誕生した。彼は世界初の「幼稚園(Kindergarten)」を創設し遊びを通した学びの重要性を説いた。彼の作った幼稚園制度はヨーロッパからアメリカそして明治時代に日本にフレーベル教育として導入され、恩物や遊びを中心とした教育が普及していった。今週の提案記事『SDGs4項目 質の高い教育をみんなに No.7』(こちら)に相応しい人物として、幼稚園の父と呼ばれたフリードリッヒ・フレーベルの人生を紐解いてみる。

フレーベル家は代々ルター派(プロテスタント福音主義)の牧師や学者が多い家柄で、非常に敬虔で道徳的な規律が強い家庭であった。父ヨハン・ヤーコプ・フレーベルは村で重要な宗教的役割を担っている牧師であり、家では礼拝や聖書研究を日常的に行う厳格な父親である。一方母のアンナ・ヤコビーネ・フレーベルはフレーベルが生後9か月のときに産後の肥立ちが悪くその影響で死去している。フレーベルは両親の6番目の子供として誕生するも兄弟とは歳が離れていたこともあり、必要最低限の世話しかしてもらえず放置された幼少期を過ごす。彼が3歳の頃父が再婚をするも継母との間に子供が生まれると彼は放任され、愛情を受けることなく育ち、成長と共に反抗的な態度をとり自己中心的な子供に成長していく。母の愛情を受けた記憶もない子供が放置・放任にされ続けたら反抗的になるのも自己中心的になるのも十分理解ができる。牧師の息子であるが故に父から礼拝に出るよう強制されるが、とことん拒否をし教会の納戸に閉じ籠ってしまったり、父に禁止されていた森や牧草地をひたすら歩き回り礼拝時間をやり過ごした。父ヨハン・ヤーコプはフレーベルのことを「知能が低く、困った子供で全く手に負えない問題児」として捉えていた。そんな父にも大きな問題があり、妻が病死したことは息子の出産が深く関係していると考え、また厳格な聖職者であったことから子供が10歳までは教会の敷地から出ることを許さず、尚且つ村の子供とも遊ぶことも禁じていた。厳格を通り過ぎた自分自身の考え方を強制し縛り付けるようなことを行なっていたのである。子供は本来強制や強要とは無縁のところで生きているものである。それが許されず牧師館という閉ざされた自由のない空間で社会との交わりを絶たれ、孤独に耐え忍んでいたのが幼少期のフレーベルである。しかしそんな孤独の中にあっても彼が心の拠り所にしていたのが聖書と讃美歌、そして自然の中に身を置くことで心の安住を求めはかっていたのである。

幼少期の体験がフレーベルが幼稚園を作り上げる教育理論に大きく影響している。その一つ目が『母の喪失(愛情の不足)』、二つ目『キリスト教の考え方』、三つ目『自然への愛』、そして最後が『遊びの恩恵』である。フレーベルの凄さというものは自分自身の人生に起きたことをやはり後世に良い形で残せたことである。

父はルター派牧師で非常に敬虔で厳しさを重んじる性格で、子供らに対しての愛情表現が乏しく、常に『理性と義務』を重んじ子供達にもその考えを強要した。父はフレーベルのことを手に負えぬ子供としてみていただけではなく、反抗的で悪意があるとも捉えていた。そしてフレーベルもまた「私は幼い頃から悪いと思われていた」と回想している。父は教育者ではなく宗教者であるため、幼い息子の感情に寄り添うことが難しかったのであろう。しかし宗教家であれば子供は神から授けられた神の子として理解ができそうなものであるがそうではなかった。もしそこに気付くことはできていればフレーベルは孤独感を味わうことなく自己肯定感が低くなることもなかったであろう。また継母は家事・子育てに追われ心の余裕がなくフレーベルに十分向き合えなかったと伝えられ、兄弟とも年が離れておりそれぞれ学業や宗教的活動に追われ、感受性豊かなフレーベルに寄り添う者はいなかったようだ。つまり家の中に安らぎや温かさを感じにくい環境があった。今も昔も子供は親の所有物ではなく、一人の人格を持つものとして関わらなければならない。そしてその子供の個性を受容して育てる方法を見つけ、そのことに当たるのが親の役目でもある。

ここで当時のフレーベルの生活記録を見ていこう。日々の生活は大変厳格で静かさの中にあり毎日の礼拝、聖書の朗読、規律ある生活が重視され、子どもの自由な遊びはなかった。このような儀礼的で愛情に乏しい家庭環境の中でフレーベルが心の拠り所としたのが、父に行くことを禁じられていた 自然 の中で過ごすことであった。家族の目を盗み特に父を欺くように森で植物を観察、石や結晶を集める、小川や草花で遊び、心のバランスをとっていたのである。これらの経験が後の「自然と調和する教育思想」に繋がった行動であるが、幼いフレーベルにとっては父からの厳しい批判的言葉を浴びせられた場所から逃げ、唯一安堵でき心の立て直しを図れるものだったのだ。

しかしそんなフレーベルに転機が訪れる。母の実兄ヨハン・クリストフ・ホフマンが訪ねてきたのでだ。フレーベルの不幸な境遇を知りホフマンは自分の家に彼を引き取ることを決断する。父は建前上「教育のため」としてフレーベルを別の学区へ通わせるとし、フレーベルは10歳で建築家の叔父ホフマンの家に預けられた。叔父の家は自由で温かい家庭であり、礼拝中心ではなく教育と生活の楽しみを重んじる家庭環境で、フレーベルの好奇心を歓迎し数学・建築・自然科学に触れさせてくれた。この頃の体験で彼は幾何学的形態の美しさに触れ、建築的な構造を見ることを楽しみ、自然科学(鉱物・植物)に興味を深めていったのである。この叔父の家で家族の温かさを初めて感じた彼は、後に「恩物(おんぶつ)」の原型となる“球・立方体・円柱”などの幾何学的教材の発想に繋げた。当時のことをフレーベルはこのように語っている。「心と感情が自由だ、自然の中で自由な生き生きとした生活、それでいて平安だ」「今までは納屋でしか遊べなかった、でもここでは全ての場所で自由に遊ぶことができる」と、その発言から抑圧と自由の両極端を幼くして体験した衝撃がこの発言になったのだ。4年の初等教育を受け、仲間と共に学び遊び友情を築いた。この叔父との出会いがなければ彼はどのような人物に成長したのかを考えるだけでも背筋がぞっとする。

初等教育後は進学したかったフレーベルであるが、他の兄弟が大学に進学し異母弟も大が進学が決まっていたのだが、父はフレーベルはフレーベルの大学進学への金銭的支援をすることも、生活の面倒を見ることも拒んだ。15歳のフレーベルは自ら生活費を稼がなくてはならなくなったのである。測量技師見習いになたいわものの仕事を教えてもらえず2年我慢しなぜか解雇されてしまう。17歳で大学に通う兄を頼り大学での学びの楽しさを目の当たりにした。どうしても進学したかったフレーベルは父に懇願し大学進学援助を願い出るも拒まれ、時間をかけて頭を何度も下げ続け母の遺産の一部(少額)を与えられ大学在籍が叶った。彼は猛烈な勉強をし応用数学・代数学・幾何学・植物・鉱物・物理・化学・・・を学んで2年、また転機が訪れる。母の遺産を兄が使いフレーベルに返済せず、大学での学びの道が閉ざされてしまったのだ。

フレーベルの人生は一度の記事にするのは大変もったい何ので、今回は彼の出生から10代までの内容をもとにまとめに入る。

フレーベルは父の宗教的考え方に従うことはなかったものの、キリスト教という教えは自身の中に深く心に刻まれており、子どもは神様から与えられたものでそれを大人が支配してはならないと考えていた。これは自身の幼い頃の父による抑圧からくるものであった。そして彼は子供のしていることを大人が受容して、子供がやりたいという気持ちになることが重要であり、大人が楽しく遊んでいる姿を子供に見せよということも強調している。と同時に人間の教育は人間が主体になるのではなく、自然の中に子供が身を委ね学ぶことが重要であるとも説いている。これもまた幼い頃に儀礼的なことを強要され屋内での遊ぶ場所も決められ、されに外に出る範囲を決められ子供らしく自由に振る舞えなかったことから起因している。

彼の言葉で忘れてはならないことが、「子供は行動してから学ぶという発達が備わっており、失敗しない行動や方法を教え込むのではなく、何か行動を起こした結果から多くの学びを得るべきだ」と提唱している。私もこの意見には賛同するが、失敗を何度も繰り返しとことん学ぶのは3歳までに行うべきが重要であると考える。しかしそれ以降は思考力を働かせて失敗から何かを学ぶことと同時に、失敗しないためにはどうすれば良いのかを自ら考え行動する思考力を育てるべきだとも考えている。つまり3歳までは単純に行動を起こして学ぶことに軸を置き、その後は少しずつ思考を取り入れながら自分で考えて行動をとるように成長すべきである。

2026年の年明け1月からはフレーベルの恩物をおもちゃ記事として掲載予定である。そちらも併せてお読みいただけるとフレーベルが生み出した教具に触れることができるであろう。しかしフレーベルはこの恩物を使用することを目的とした教育の重要性を唱えているのではなく、学び以前の親子の関わりや子供の成長についての重要性を説いている。次回の偉人の記事で深掘りする予定である。









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