偉人『チャールズ・ディケンズ』

クリスマスといえば子供達に読むことを勧めてきた本『クリスマス・キャロル』がある。意地悪でケチな冷たい老人が幽霊たちの訪問を通して改心し、人間として成長していく心温まる物語で、クリスマスらしい「優しさ・思いやり・贈り物」の精神を深く描いた名作で幾度となく舞台や映画絵本にもなった作品である。それを書いたのがイギリス・ヴィクトリア時代の古典作家、そして当時の社会暗闇に焦点を当て、社会の底辺層の人々の苦貧困難や不正義に切り込んだチャールズ・ディケンズだ。ディケンズは波瀾万丈に富んだ人生を鋼のような強さで乗り切り、成功を勝ち得た人物である。今回は彼が不遇に満ちた人生で見たものはなんだったのか、何を心の支えにして人生を歩み続けたのかを探ってみることとする。

 チャールズ・ディケンズは1812年2月7日イングランド南部のポーツマス・ランドポート地区で、父のジョン・ディケンズと母エリザベスの8人の子供の2番目として誕生した。父ジョンは海軍給与局職員として働き収入は低かったが、家族は明るく社交的でディケンズが9歳ごろまでは比較的幸せに暮らしていたようである。がしかし父は浪費癖があり母もまた同じような金銭感覚を持ち家計の管理は上手くなかった。その後一家は借金による経済的困難に陥り、住所を転々とする不安定な生活を送り、とうとう父はわずかな借金を返すことができず、借金不払いによりマーシャルシー債務者監獄に収監された。更に生活苦に陥り母は兄弟の中でただ一人ディケンズを働かせることにした。親戚筋のネズミが這い回るようなテムズ川沿いの薄暗い靴墨工場で家計を支えるためにわずか12歳の少年が児童労働を強いられたのである。

靴墨を瓶に詰めラベルを貼る単純労働であったが、大人に混じって朝の8時から夜8時の12時間労働を強いられ、週6シリングの低賃金、過酷な労働環境だったようだ。後にこの時のことをこのように語っている。「靴墨工場に一人で働きに出ることを知った時には自分が見捨てられたと感じ深く傷ついた」「大人の社会の不公平さに強い怒りを覚えた」と。ディケンズは大人になりこの記憶を語る時は涙ぐんだそうである。しかし彼が鋼の心を持っていたとされるのは、涙ぐむほど辛い幼少期の経験を後の作品に活かしたことである。彼は「弱い立場の人々への共感」を描く世界的作家となり、社会的な変革を促しディケンズ自身もその活動家としても知られるようになった。

父ジョンは釈放され監獄から出ると借金を返済し、ディケンズを靴墨工場から引き取り家族と共に生活し学校へ行かせようと考えた。しかし母エリザベスだけは学校へ行かせることに強く反対し「せっかく職を得たのだから辞めさせるべきではない」と考え、ディケンズを工場に戻そうとしたのである。この母の考え方にディケンズは靴墨工場で働かせられた時以上に大きな衝撃を受け心に傷を負う。ディケンズは大人になってからも母に対して一線をひき、生涯母へのわだかまりを解消することはできなかった。一方母エリザベスは社交的で陽気な女性であったようで息子の文学的才能を誇りにもしていましたようだが、ディケンズはこの母のことを人柄は良いが無分別、子供の苦難困難に対して鈍感すぎるという母親像を作品『デイヴィッド・コパフィールド』に反映させている。

その後転居したことにより学校へ通学することができたものの15歳でまた労働を余儀なくされた。しかしここからのディケンズのはい上がりは誰も予想ができないほどであった。執筆の才能を見せはじめなんと新聞社で記者として働き出すのである。あまり表には出てこないが、ディケンズは子供の頃てんかんの持病があり体が弱かったこともあり、幼い頃は外で激しい遊びをするより室内で読書に明け暮レ、物語遊びをすることが好きであった。のちの描写力・豊かな語彙力はこの読書量から育まれる。父の書斎にある本を片っ端から読み漁ったそうであるから、15歳にして記事を書くことができたのであろう。またディケンズのもう一つの能力は記憶力にある。幼い頃に騎兵隊の並びを即記憶したことがエピソードとして残されている。幼くして磨きをかけた文筆力と記憶力の両輪が彼を文学の道へと誘うことを彼自身も両親もまだ気づいていなかった。その後彼の文才は留まる事を知らず一躍脚光を浴びた。しかしまだ15、6歳であったため法律事務所で働きながらジャーナリストになる事を決め速記術の習得に励み、後に英国一の速記術者となり一時期法廷で速記社として働いた。その後ジャーナリストとして働く傍ら10代後半彼の才能をに目をつけた諸雑誌社から原稿依頼が舞い込むようになる。24歳で初のエッセイを出版し高い評価を受けることとなった。

ディケンズの幼少期はのちの作品世界を形づくる重要な経験で、3つのテーマを作品に深く刻み混んでいる。一つ目は貧困と児童労働への怒り、二つ目は家庭の崩壊・再生への強い関心、そして三つ目が弱者への思いやりとユーモアである。彼が「弱い立場の人々」に深く寄り添う物語を書けたのはこの幼少時代の体験が大きな理由であるが、辛く精神的に追い込まれも観察力は鋭く社会の問題に対しての怒りや反発などに焦点を当てるだけでなく、ユーモアを兼ね備えた感動で物語を展開させることが得意であることは、彼の中にあるエンターテイメント性をが大きく関係している。ディケンズは芝居を観てから俳優になりたいと一時考えたこともあり、本が売れ出してからライブパフォーマンスを演じ公開朗読会を開いたり、登場人物のフィギュアを発売したりと日々に彩りを与え、活力や豊かさを作品に反映した類い稀なる作家である。

特に『クリスマス・キャロル』は「心温まるクリスマス」と「社会派小説」の両方を作品としたもので、現在の「温かい家族のクリスマス」のイメージを広めたと言っても過言ではない。またディケンズの作品は産業革命で働きづめに陥り、伝統行事が廃れクリスマスを祝うことさえも下火になっていたことを見直させ、「クリスマスを祝う」文化を再び盛り上げたとも言われている。

それではまとめに入ろう。

ディケンズの幼少期はかなり厳しいもので学校教育を受けたのはわずか4年、あとは児童労働詰めであった。その苦難の思いだけで人生を歩んでいたら鋼のような精神力はどこかでボキッと折れていたかもしれない。しかし彼はエンターテイメントで心を満たす方法を知ったことにより柳のようなしなやかな精神を獲得した。「貧困者の救済」「思いやり」「改心」を柱とした『クリスマス・キャロル』が書けたのは、ディケンズ 自身が心を救われた経験があり、助けを求める子どもたちへの共感が反映され、心豊かに過ごすことを知っていたからである。ディケンズの作品が今もなお読み継がれているのは、彼自身が自分を救う術をユーモアに求めていたからに違いない。どんな理不尽なことにあっても不遇な時期にあっても気持ちの切り替えを行い、自分自身を豊かさで満たすというスイッチ作りは重要なことだと彼の人生から学ぶことができる。一時的に不平不満、恨み辛み、妬み嫉みなどの負の感情を抱えたとしても、それを払拭できる術を見つけることが自分自身を尊ぶことになると言えるだろう。これからの子供達には気持ちを切り替える力やその方法を見つけられる人生を歩んで欲しいものである。

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