偉人『ネルソン・マンデラ 第2弾』
1月2日の偉人記事『ネルソン・マンデラ第1弾』(記事はこちら)で彼の幼少期について記した。彼が受けた教育は一般的アフリカの人々が受けたものと大きく異なり、部族内で帝王学を身に付ける教育とキリスト教系の学校で受けた教育、そして両親から受け継がれたものである。そして今回はそれらの教育がどのように花開いたのかを彼の成人後の生き様から紐解いていく。
マンデラの人生を語るにあたり絶対に外せないのが27年間もの投獄生活である。1962年から1990年44歳から71歳までの長期間プレトリア中央刑務所、ロベン島刑務所、ポールズムーア刑務所、ヴィクター・ヴェスター刑務所という4箇所に収監され、18年という最も長く収監されていたロベン島での石灰石の切り出しの過酷な強制労働で目を痛め、結核に罹患しながらも自由を手に入れるための準備期間として、多くの学びと囚人間での議論や教育に時間を当てた。マンデラの凄さというものを一言で表すとすれば精神面の強さである。人間が監禁されると何が起こるのかといえば、それは人格の破綻である。しかしマンデラは人格破綻に陥ることなく、自分自身の感情を分析し、自らの内面と向き合い人格的成熟を選択し、自らの精神の進化を成し遂げたのである。
それがどのようなことなのかと例題を挙げて説明しておこう。例えば看守からの言われなき暴力を振るわれた時、どうしても人間は痛さを味わえば腹立たしさや怒り憎しみなどの感情が生まれる。しかしマンデラは感情に流されることなく「なぜ看守はこのような行動をとったのであろうか」「そして今後どのようなアプローチで看守と向き合うべきなのか」を建設的思考で理解しようと努めたのである。やられたらやり返せ、敵には敵で応じる、目には目を歯には歯を、やられっぱなしになるななどの考え方は微塵もない。先ず相手の行動はどこからきているのか、その背景には何が潜んでいるのか、今後同じような事が起きないためにはどうすべきかなど分析思考に置き換えることを選択したのだ。さらにマンデラの凄さは、敵である人物に対しても相手の良い点を見つけることに徹し、さらにその相手から目を離さない長期的視野で物事を考えるところにある。このマンデラの凄さの根源はどこなのか。私が導き出したのは母や学校教育での信仰によるものではないだろうかということだ。聖書には「敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。」「悪に悪を返さず、かえって祝福を与えなさい。」「あなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませなさい。」などの言葉が聖書にはある。そして日本でも戦国時代、武田信玄が今川氏・北条氏から塩の供給を断たれて困っていたとき、敵対していた上杉謙信が「戦は弓矢でするもので、塩でするものではない」と越後(現在の新潟)から塩を送ったと伝えられている。つまり感情に流されず建設的な考え方をする人物は真の指導者となりうるのだ。自らの内声に耳を傾け、深い思考で物事を真に捉えることができる人物は反抗的な態度や暴力的な行動も起こさず、未来に向けて人を責めることなく自らを研鑽することができ、深い思慮を手に明るい方向へ歩み出すことができるだろう。いざという時人間は心理の深いところで思っていることが言葉に出たり、本人の気づかないところで行動に出たりするものである。ところがマンデラは自分自身を高めるために物事を受け入れることができた人物であるからこそ、尊き人生が送れたと考えている。マンデラのように困難な時期にこそ学びを深めるということを子育てに於いて発動するかしないかは大きな差が出てしまう。子育てでは親子でトンネルの中に入ってしまう場合もある。そのトンネルに灯りを灯して導くことができれば親子で確実にトンネルを抜けることができるが、親御さんの受け入れができていない場合はそのトンネルからの抜け出しは難しい。親御さんの学びの中でその状況や私の指摘を「素直に受け入れてみよう」と考えるのと「反抗せずに従おう」では出発時点で方向性が異なり大きな壁をうむことにもなる。そうならないためにもまず素直に何を考えるべきなのかを考えることが重要だ。そこに親御さんが気づくかどうか、それが子供の成長の鍵を握っている。
マンデラの話に戻そう。マンデラの幼少期に培ったリーダーとしての能力を遺憾なく発揮したのもこのロベン島刑務所である。囚人の権利向上のため看守や当局と粘り強く交渉し、短パン着用、食事の質の向上など黒人囚人への差別的待遇の改善を勝ち取った。それができたのもやはり前述した建設的思考によるもので、彼が常に実行していた相手との対話であり、暴力ではなく平和的解決を行うためにはどうすれば良いのかを常に冷静に判断した結果によるものである。彼のこの考え方と行動力がなかればアパルトヘイトが実行されている南アフリカの刑務所で囚人の待遇が改善されることなどあり得ないことであっただろう。
また彼が行ったのは同じアフリカ系囚人に対する対話、討論、教育である。アフリカ系といっても多くの部族があり、教育を受けた者受けていない者、血気盛んな若者をまとめるのは一筋縄では行かなかった。そこでマンデラが手を打ったのは囚人同士の対話、議論、教育である。
例えば囚人同士の暴力、罵倒、無秩序な行動を厳しく戒め、看守に対しても礼儀を失わず、感情的に反発しない姿勢を示し「自分たちの尊厳を守ることが闘いだ」と繰り返し説いた。また部族・年齢・思想の違いで対立する囚人たちの仲裁役を務め、共通の目的である人間として扱われることを強調した。読み書き、歴史、政治、法律を教え合う勉強会を組織し、知識を持つ囚人に「教師役」を任せ全体を底上げし教育を通じた結束を実行。血気盛んで怒りや絶望を抱えた若者に時間をかけ短期的な報復ではなく、長期的な解放を考えるよう導いた。この若者たちがその後の運動を担う人材となった。若い囚人の「怒り」を変えた話をしておこう。ロベン島には投獄されたばかりの若い活動家が多く、看守に対してすぐに怒鳴ったり、反抗したりしていた。そんな彼らをマンデラは叱るのではなくこう語ったとされている。「怒りは十分理解できる。しかし、怒りを見せるのは相手を強くするだけだ」と伝え、看守の名前を覚えること、目を見て落ち着いて要求を伝えること、侮辱されても感情的に反応しないことを伝え実行させた。その結果、看守側が次第に囚人を「ただの反乱分子」ではなく理性的な交渉相手として見るようになった。マンデラの行動の中に『負けて勝つ勇気を持て』いうものがある。まさしくこの若者に対しての教えがこれである。
ではマンデラがなぜそこまで囚人たちの信頼を勝ち得て、看守たちにすら一目置かれたのかをこのロビン等刑務所の生活で見ていこう。
夜マンデラが先導し看守の目を避けながら囚人同士で非公式な授業が行った。法律を知る囚人 は憲法や権利を教え、歴史に詳しい囚人 は 植民地支配の歴史を講義し、若者 は質問役として議論を活性化した。しかしマンデラはその中心に立つというより、全体を調整する校長のような役割を果たしていた。マンデラの後の政治活動にも見え隠れする活躍できる人物にそれを任せ、自らは全体が見渡せるような立場に立ち統制を図った。後にここから南アフリカ政府や議会で活躍する人物が多数育っている。独裁者のような自ら権力を振るうのではなく、時に自分自身は象徴であり、能力ある人物や固形者が育つようにまとめ上げていったのである。マンデラが大統領が残り一年の任期を何の未練もなく、次の後継者にバトンを渡したのもこの考えがあってのことだ。潔い決断が下せるのは真の勇者であるとつくづく思う。
また南アフリカでは部族間の対立も深刻である時、部族の違いから囚人同士が対立しかけた際、マンデラは個別に双方と話し、共通の苦しみや共通の未来があること、敵は互いではないことを静かに説き、部族対立を止める仲裁に勤め「部族よりも人間としての尊厳が先」という考えを囚人間に広めた。その姿勢を示すために部族特有の言語をそれぞれ学んだ。そのようなマンデラであるから多くの囚人は「彼は言葉だけでなく、行動で示す」と強く信頼するようになった。そのほかにもマンデラは刑務所で有名人だったが、軽い労働への変更や特別な待遇を自ら拒否し、自分だけを特別扱いすることを良しとしなかったのである。
それではまとめに入ろう。
マンデラのすごいところは囚人をまとめる中心にいながら怒りを煽らず、自分を偉く見せず、人を育て、考えさせ、尊厳でまとめたことである。この姿勢こそが後の「復讐ではなく和解」という政治姿勢に繋がったのだ。そして自ら模範を示し、過酷な労働や不当な扱いにも耐え、弱音や特権を求めなかった責任ある態度で、自然に信頼と権威を得た。
1990年2月11日、マンデラは釈放され、その後南アフリカ初の全人種参加選挙で大統領に就任する歴史的大きな変遷を導いた人物である。お母様方には子育てにおいてマンデラのような先導者になるためにも、どのような状況にあってもまずは素直に状況を受け入れ、深く考察思考し、的確な行動を起こし、灯りを灯しながら子供を導いて欲しいと考える。我が子を育てるのは教師ではない。母親であり父親であるのだ。
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