偉人『伊藤野枝』

「伊藤野枝」この名前に聞き覚えがある人はどれだけいるだろうか。私も20代前半までは知らなかった人物である。彼女を知ったのは、伊國屋で手にしたとある文芸誌であった。大正時代に日本で活躍した女性解放家や自由恋愛を主張した女性の特集記事だったと得る覚えながら記憶している。そして数年後に平塚らいてうの記事を通して彼女の人生を知ったわけである。28歳で国家権力によって殺されるまで自分の生き方・恋愛・結婚・女性の自由について徹底して「自分の意思で決める」ことを追求した女性だったことに何か引っ掛かりを感じていた。その引っ掛かりは、彼女の心の奥底にある「自分を押し殺してまで、他人のことを考える必要はない」という考え方で、私が受けた教育とは真逆のもので「お先にどうぞ」と教育を受けた私にとって良き古き時代に彼女が人生て徹底的に行なった自分優先が、青天の霹靂ならぬ、天の落雷、寝耳に水どころかバケツいっぱいいやバスタブ満タンの水、今の若い人が使う言葉にするなら、マジびっくりしたいう衝撃であった。今回は伊藤野枝という大正時代の女性解放運動を行なった彼女の生い立ちから、なぜ彼女がそのような思想を持ったのかを紐解き、子育てから分析する。

伊藤野枝は1895年1月21日、福岡県糸島郡今宿村の貧しい家庭に生まれる。7人兄妹の3番目の長女として生まれ、父の亀吉は海産物問屋「萬屋」を営んでいたが商売は上手くいかず、父はその後鬼瓦を彫る瓦職人となった。しかし大変気位が高く仕事には不真面目だったため、母ムメが代わりに塩田の日雇いや農家を手伝うなどして生計を立てていた。野枝は小学2年生で口減らしのために叔母・マツの自宅へ預けられた。今では使われることのない「口滅らし」と言う言葉は、当時としては農村でよくある状況である。ここで彼女らしいエピソードが残っている。ある時妹と二人留守番をしていると、空腹に耐えかねて釜に残っていたわずかなご飯を前に、妹は「母のために残しておこう」と提案したが、野枝は残すどころか全てのご飯を自分一人で食べてしまったのである。口減しさせられるほど貧しいい家庭に育っていた妹は母を思いご飯を残そうと提案し、同じ母を持ちながら姉野枝は全てを自分一人で食べてしまう・・・この姉妹間の違いはなんであろうかと疑問が生まれる。自分さえ空腹が満たされれば良いと行動を起こした理由はどこにあるのか。

私が推測するに野枝の人生から考えられることは、「自分を押し殺してまで他人のことを考える必要はない」という価値観の形成がそうさせたと考えている。ではその価値観が生まれる背景は何であっただろうか。

私は2つのことが大きく関係している、そして彼女に自己決断に加えるべきものがあったことについても以下に記しておく。

1、親や周囲の人が自己犠牲的だった

大正期の社会や家族観を考えると家父長制が基本で、父親(戸主)が家族の中で大きな権限を持ち、家長が家族を統率し、結婚は家の都合が重視され、女性は結婚後夫の家に入り、家事や子育てを担うことが一般的で女性の立場は虐げられていた。野枝の家も先述した通り働かぬ父の代わりに母が家計を支えるためにいくつもの仕事を掛け持ちし、母は自分を犠牲にし家族を支えた。女性は「家族のために我慢する」ことが当然の世の中であり、周囲もそれを当然・美徳として受け止めていた時代であると考えれば、野枝が自己犠牲を嫌っていたことの十分な理由となる。野枝自身が母の姿を見て「女性が生きるとは、こういうことなのか」と考え、そこから「私は自分の人生を自分で選びたい」という意識に繋がったのではないだろうか。後に母のムメは「決して野枝を口減しにしたのではない」とは語っているが、娘野枝からすれば赤の他人の元へ出したのではないにせよ、家族から離れて暮らさなければならない貧しさは何なのか理解できるようで理解できなかったであろう。母のように自分の道を親から決められ嫁ぎ、嫁いでも尚夫が働かず自分を犠牲にして、家族のたまに働いている姿が理解できなかったでのではないだろうか。つまり「自分を犠牲にする人生を、自分は送りたくない」という感情が育つのも無理はない。母に感謝はしていたかもしれないが、「ああいう生き方はしたくない」と考えてしまうのも無理はない。

2、幼少期から「自分のことは自分で守る」という感覚が強かった

大正時代の農家では特に農作業や家事などで親が忙しく、常に子供を見ていられないという環境は日常的だった。そのため子供自身が自分で考えて動くこと、危険を自分で察知するという自立性は育ちやすかったのであろう。また年長の子供が兄弟の面倒をみ、近隣の子ども同士で助け合う慣習もあった。よって親に頼らないというより、親以外の人間関係の中で自分の居場所を作るという能力が求められたのもあの時代である。つまり親が忙しすぎて子供は全面的に親に頼れないから、自分で状況を判断し、自分の身を自分で守り、自分なりの対処方法を身につけていく。野枝もまたこのような環境で育ったのは間違いない。これらの拝見を元に野枝の人生を見ていくと、自分の人生は自分で動かなければ状況が変わらないという経験が、早い時期からあったと見るほうが的を得ているのではないだろうか。実際、野枝は進学したいという希望を持ち、東京の叔父に繰り返し手紙を書き訴え、ようやく上京し進学を果たしている。そして自分の人生は自分で切り開くと言う信念に迷いがなく、象徴的なこととして彼女が行動に出たのが女学校卒業前後の結婚である。おそらく結婚の話が進んでいく段階ではまだ迷いもあったであろう。親と親族が決めた演壇が仮祝言まで進んで流されたものの、わずか9日で野枝はその結婚を受け入れず東京へ戻っている。当時、仮祝言まで進めばどんなに気が進まなくても受け入れるべきとされた時代である。それを野枝は勝手に結婚させられ、それを受け入れることこそ、「自分の人生ではない」と考えたに違いない。つまり彼女は幼少期に親元から離され、家計の事情で進路に制約があり、親や親族によって結婚を決められる経験や自分の望みを周囲の事情によって諦めさせられる経験が起こる度に、自分のことは自分で何とかしなければならないと言う感覚を成長させていったと考えて良いだろう。その積み重ねが成人後の『自分の人生は自分で決める』という非常に強い姿勢に繋がったのではないだろうか。


3、本来の自分で決めるということの教えの重要性

さて、ここで大事なのは『自分の人生は自分で決める』という本当の意味を教えることにある。自分の人生を自分で決めるということは、「自分がしたいことなら、他人がどう思うかは関係ない」と受け取るのではなく、本来の「自分で決める」は、「自分で考え、自分で選び、その選択によって生じる結果や他者への影響も引き受ける」ということである。つまり、子供には単純な自己決定だけではなく、『自己決定+他者への配慮+責任』があることをセットで教える必要があり、そのことを教えるのが親の役目や周りの大人のすべきことである。しかし野枝の環境を考えるとそれを教える者はいなかった。だから彼女は自己決定権だけで人生を歩み続け葛藤し続けたのである。その葛藤は我が子たちに関することであり、親や周りの大人から他者への配慮と責任について学ぶことがなかったために、可愛い我が子達までも巻き込んだ連鎖を構築してしまったのである。もし野枝に他者を尊重しながら、自分の人生についても主体的に決めることができるよう大人が関わりを持てば、彼女の人生は大きく変わっていたに違いない。


4、子育てで葛藤の連続

伊藤野枝は28歳で亡くなるまで辻潤との間に2人、大杉栄との間に5人の計7人の子供を儲けている。野枝自身が自由な思想を持っていたと考えると子供を自由奔放に育てていたように思われがちだが、彼女の残された手紙を見ると、むしろ子どもを思い何夜も涙したことや子供を置いて仕事に来てしまったこと、子供を本当に大切に思いながらいることを認めている。手紙のな強から考えると「自分の自由を優先して、子供達のことは気にしなかった母親ではなかった。 ただし、野枝は当時の女性に求められていた夫に従い、家庭を守り、子供を中心に生きる母親という当時の普通の母親像には収まらなかった。執筆活動を続け、青鞜社の仕事にも携わり、大杉栄との生活を選び、そのため子どもと離れて暮らす時期もあった。野枝自身もそれについて非常に苦しみ「こんな無慈悲な母親があるでせうか」と自分を責めるほどであった。「自由に生きたい」ことと「子どもを大切にしたい」ことが、彼女の中で簡単に両立していたわけではない。野枝自身は、自分の人生を自分で選ぶことを非常に重視した人であったが、実際には、その自由な選択によって子供達との関係に悩み苦しみ葛藤し、子供の生活について心配し、自分の選択が子供に与える影響について苦しんでいる。野枝の人生を見ると、「自分で生き方を決めた」からこそ、その決定が子供や周囲の人にどのような影響を与えるのかという問題が生じているのだ。


5、子供達への影響

野枝の子供達の成長も非常に興味深いところである。女性も一人の人間として自分自身の生き方を選ぶ権利を持つべきだと考えていた彼女が、子供を持ち、その子供達が後にどのような人生を送り、母親である野枝をどう見ていたのか、つまり、野枝の自由な生き方は子どもにどう影響したのかを紐解いておく。

長男の辻まことは、後に画家・文筆家として活動し、母親と同じように「自由な人間」として生きた側面があ離、山や旅を愛し絵や文章を残した。次男・流二には、かなり複雑な影響が見える。彼は幼いころに養子に出され、その後母親とは離れて育ち野枝について質問をされると、「野枝? 大嫌い!」と語ったとされている。これは非常に重い証言で、野枝の自由な思想と次男の間には違った思想があったと言える。おそらく母親が自由を選択したことによって、子ども自身がその結果を引き受けることになったという側面が良湯取れるのだ。さらに父親違いの子供達はさらに特殊な環境で育っている。1923年、野枝と大杉が殺害されたとき、子供達はまだ非常に幼かったため母親を直接知る機会そのものが少なかった。幼い子供達にとって重要なことは何か、それはこれまでに何度も記事にしてきた「愛情を注ぐ」ということである。身内に引き取られても親以上の愛を注がれることが本当に可能であろうか。多くの愛情を注がれたとしても、何か欠けたものを感じることは少なからずあるだろう。

やはり私はこう思うのだ。「自分の自由」だけを考えて、「自分の選択が他者に何をもたらすか」を考えないのであれば、問題が生じる事は避けられない。野枝自身がまさにその難しさを経験している。だから野枝の人生から学べるのは、自分の人生は自分で決めるだけではなく、自分の人生を自分で決めるなら、自分の選択によって他者がどうなるかも考え、責任をとることを心してかかれということだ。

そして子育てに生かすとすれば、あなたの人生だから好きにしなさい」だけではなく、「あなたはどうしたい?」、「その選択をしたら、周りの人にはどんな影響がある?」、「それも考えたうえで、あなたはどう決める?」と子供に問いかけ育てることである。

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