偉人『田中正造』
今週月曜の提案記事『SDGs15項目「陸の豊かさを守ろう』(記事はこちら)と関係する偉人といえば何人浮かんだが、やはり足尾銅山鉱毒事件で被害を放置せず、人々の暮らしと自然環境を守ることを訴えた田中正造以外に適任者はいないと判断したのである。
白髭を無造作に生やし、眼光鋭い眼差しでこちらを見ているような写真が真っ先に映像として浮かび上がってくる。日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件の解決に奔走し、明治天皇に直訴しようとしたことで有名な政治家であるが、小学校6年お歴史の授業で、日本国家の中心的な存在と考えられていた天皇に、直接政治や社会の問題を訴えることが非常に特別で、大きな覚悟が必要だったという事を担任が言っていたことに「どういうこと???」と頭の中を駆け巡った記憶がある。母に質問しても明確な答えはなく、父に聞いてやっと理解ができた。以前にも記事で記したが、我が父は戦火の中小学校に飾られている天皇陛下の写真を風呂敷に包んで安全と思われる地域まで運ぶように祖父に言われ行動を起こした経験がある。その父が写真を教団の高い位置から外すために、祖父が深々と一礼し丁寧に扱う様子や命をかけて写真を守る事を誓わされた話を聞き、天皇が国家の中心であった時世という事を認識できたのだ。つまり当時の社会で非常に大きな意味を持つ天皇に対して、田中正造は自分の立場をかけて、被害を受けた人々を救おうとしたことを理解できたのである。天皇が中心の時代に生きた田中正造と、天皇が国の象徴になってから生まれた私たちでは大きな感覚のずれがあるのも仕方のない事である。今回はこのような時世の背景を念頭に置き、『SDGs15項目陸の豊かさを守ろう』と奔走した田中正造について学んでみることにする。そのためには正造の人生を紐解かなければならない。これから6つに分けて彼の人生を紐解いていく。
1、幼いころから村を背負う家に育った
田中 正造は江戸時代の1841年12月15日に、現在の栃木県佐野市小中町で生まれた。江戸時代の農村では村をまとめる役割を担う名主という人物がおり、父宮島正造は村の名主として村の行政をまとめる立場であった。その仕事は、村の行政を取りまとめること、年貢などに関する仕事、村人と領主・役所との間を取り次ぎ、村の問題を処理するなど村人を代表して交渉するといった仕事であったようだ。つまり正造は、名主の家に生まれ幼いころから村の政治や農民の生活を身近に見る環境にいたのである。後に正造が足尾銅山の問題に踏み込んでいくのも、家庭環境特に父の名主という姿を見て影響を受けたのは間違いない。
2、「学問」を身につけていた
正造は農村の家に生まれながらも寺小屋で学問を学び、幼少のころから、「学問に兼ねりし」と記録されるほど勉強が好きで学問に熱心だったとされ、単に知識的な学びだけではなく、
後の被害を受けた農民たちの声を聞き、それを行政や国会に届けるための「問題を見つける」「原因を考える」「文章にする」人に伝える」という力を身につけていったとされている。つまり、正造は政治家になるずっと以前から「人々の声を代表して交渉する」という経験を積んでいたのである。
3、江戸から明治への激動を経験した
正造は1841年江戸時代に生まれた。ペリー来航、大政奉還、明治維新、廃藩置県など、日本の政治制度が根本から大きく変わっていく時代を青年期に迎えている。そのため、正造にとって「政治や社会の仕組みは変えることができる」という感覚を持っていたようである。実際に正造は明治になると地方政治に進出し、県会議員、さらに衆議院議員となったわけであるが、明治維新によって「身分」だけで人生が決まる社会が終わったということもあるが、彼自身が17歳から名主にとなり、村の問題を知り、自分で考え、それを文章にし、新聞で社会に発信するという活動ができていたからであり、単に「村の有力者」だっただけではなく、社会問題について意見を発信できる人物になっていたからである。
4、新聞を発行していた
先にも記述したが正造は問題を文章にする力があり、1879年に『栃木新聞』を創刊し、編集長を務めている。新聞を作るということは、情報を集める、事実を調べ、意見をまとめ、社会に発信するという活動を行った。その力を使い鉱毒問題についても、被害の実態を調べ、それを社会に知らせ、政府に対応を求めるという活動を行ったのである。
5. 県会議員・国会議員として「政治の仕組み」を知っていた
正造は1880年に栃木県会議員となり、県会議長も務めた。そして1890年に最初の衆議院議員総選挙で国会議員になった。もし正造が単なる農民だったなら、政府に問題を訴えかけても、国政の仕組みに直接働きかけることは難しかったであろう。しかし正造には、村の中で名主としての役割から県開銀としての活動、そして国会議員として政治の現場を経験してきた背景があり、だからこそ足尾鉱毒問題についても、国会で政府に質問し、政治問題として追及することができたのである。
6. 「自分の利益」だけではなく、農民の立場から考えていた
正造の活動を理解する上で、自分の利益だけではなく、農民の立場から考えていたことが一番大切なことである。正造はもともと農村社会の中で生活し、そのため、農地が壊れること=農民の生活そのものが壊れることだということを理解していた。足尾銅山の鉱毒問題では、渡良瀬川流域の農地や農民の生活に深刻な被害が生じ、正造はその問題を単なる「工場による公害問題」としてではなく、人々が生活する権利や農村そのものの存続に関わる問題として捉えていったのである。
7. 政治家を辞めても運動を続けた
正造の特徴が最もよく表れているのが、この政治家を辞めても運動を続けたことである。1901年60歳で、造は衆議院議員を辞職している。その後不退転の決意で明治天皇への直訴を試みた。現代の国会銀も口を揃えていうが、国会議員だからできることがあり、その座から降りた後はできないことが多いという。120年前も現代も国会議員の権力というものは大き買ったに違いない。しかし彼は国会議員という立場を失っても、問題が解決していないと考えて活動を続けたのである。では「なぜ正造にはそんなことができたのか?」である。「人々の生活を守る」という問題を、幼いころから村の中で身近に経験し、それを学問・文章・政治・交渉という方法で社会に訴える力を身につけていたことが大きく影響していることは間違いない。正造が最初から「偉大な社会運動家」だったのではなく、名主として村人と関わり、地域政治に携わり、新聞で社会問題を訴え、県会議員・国会議員になり、足尾鉱毒問題を国政の問題として追及する川での活動を通して、解決しないことに心を痛め頭を悩まし議員を辞めても運動を続けるという積み重ねがそうさせたのであろう。
今回は現在のSDGs目標15「陸の豊かさも守ろう」に繋がる人物の一人として田中正造を取り上げた。私が学生の頃に学んだのは、田中正造が鉱山から出た物質によって森林や農地、川などの自然環境が大きな被害を受け、その問題に立ち上がった人物として史実の中の人物として学んだわけであるが、彼の起こした150年ほどの前の行動、活動、そして運動がただの史実の一部としてしまわれているのに疑問を覚える。現在のSDGs目標15「陸の豊かさも守ろう」は実は日本は早い段階でこの問題を突きつけられていたのである。田中正造は、足尾銅山鉱毒事件によって被害を受けた農民を救うために活動し、鉱毒によって渡良瀬川や農地などの自然環境が被害を受け、それが人々の生活にも影響を与え、自然を壊して人々の生活を犠牲にするような発展ではなく、山や川、村、人々の命を大切にすることが重要だと考え訴えていたのである。つまりこの考え方は、現在のSDGs目標15「陸の豊かさも守ろう」と重なる部分があるのだ。
足尾銅山では鉱山開発や製錬に伴う煙害などによって、足尾周辺の山々が大きく荒廃し、現在でも国土交通省は、足尾地区について山腹斜面の荒廃や裸地化が進んでおり、土砂の生産・流出が活発な地域だと説明し、。そのため現在も砂防事業が行われているそうだ。また荒廃した山を元に戻すための植林を毎年7000人が行い、緑化活動が現在も続いている。つまり木を植えれば終わりという問題ではなく、一度森林が失われると土壌が失われる、木が育ちにく苦なり、雨で土砂が流れさらに土地が荒れるという悪循環が起っているのである。そのため、森林を少しずつ回復させる長期的な取り組みが必要になっているのだ。それはやはり森林だけの問題ではなく、土壌や川、そしてその場所で生きていたはずの生き物にまで影響しているのは容易に想像できる。またそれは鉱山活動によって生じた堆積物などからの土砂・堆積物の流出を防ぐ対策や、水質改善のための施設が行われている。特に渡良瀬川では購読が下流へ流れ農地や農作物に大きな被害を与えたが、環境省も、足尾銅山からの鉱毒によって渡良瀬川流域に被害が広が離、現在でも大雨などの際に銅などの重金属を含む土砂が流出する可能性への警戒で河川や流域の環境について継続的な対策・監視が行われているという。
田中正造が問題提起したことは、環境問題だけではない。「産業の発展と、人々の生活・自然環境をどう両立させるのか」という問題を、日本で非常に早い時期に突きつけたのが彼であるからこそ、現代に生きている我々は彼の活動と史実から多くを学ばなければならないのである。先人が声を大にし、どんな困難があっても、決して後戻りせず、最後までやり抜こうとする強い決意で人生を賭けて行った行動を、現代の我々は子供達にどう伝えれば良いだろうか。「できる事をしなさい」「問題を先送りにしないの、さっさと自分のすべきことはしなさい」と子供達に教育しているはずの大人が、問題を先送りにしている現実がある。今、田中正造に意見を聞くとすれば、彼はどのような返答をするのであろう。
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