偉人『織田信長』第二弾
今回は織田信長の幼児期に
焦点を当て呟いてみよう。
2歳で家族と離れ城主となり
4歳で家老に預けられる。
なぜ一人、城や家老付きの
孤独な生活を
送らなければならなかったか
甚だ残念であるが
そこには母土田御前が
癇癪もちの息子を
愛することができず
距離をとってしまったことが
母子間に埋めがたい溝を作り
信長も
可愛がっていた弟の信行も
戦国に語り継がれる
兄弟の残忍で冷血な
お家の一大事にした。
母土田御前の信長に対する
愛情の欠如と
兄弟を育てる順付けのミスが
招いたものである。
母は長子をその立場で育て
長子は下の子を
可愛がるように躾
下の子は長子を敬うように
躾けなければならない。
これは戦国時代であっても
現代であっても
絶対に違えてはならない。
しかし母だけが悪ではない
父は戦に資金をつぎ込み
幼き城主信長を顧みず
彼の生活は困窮を窮め
物心が付く中での冷遇は
信長の精神を歪ませた。
とはいえ信長は
『父よ、私はここにいる』
『母よ、私を愛し認めて』
とシグナルを出していた。
『尾張のおおうつけ』
と呼ばれる奇行や
奇抜な身なり、振る舞いは
嫡男としての
非常識な行動であっても
人の心の当然な叫びである。
戦に明け暮れる世の時代
外の敵に目を奪われ
親子の愛情の掛け違いが
織田家を揺るがすと
想像だにしなかった父は
戦国武将として致命的だ。
信長の10代を考えると
まだ父母に対する思いが
見え隠れする
ただ幼少期からの葛藤は
年月がその人格をも変貌させ
嫉妬は怒りに変わり
怒りは増幅し憎悪に変わる
その矛先が弟に向いた
しかし母の懇願で信長は
一度は弟を許している
残忍で冷酷な人物の中にも
寛容さはあったであろう。
だが弟や臣下は
疎んじてきた兄信長を
最後まで敬えなかった。
また信長も心の負を増大させ
冷血無慈悲な行動をとった。
乳幼児教育者として
言えることそれは
幾千年の月日を経ようとも
どんな時代を迎えようとも
親は子に無条件の愛を
注がなければならない
ただ愛情にも色々な形がある
筋道を立て
冷静さを持ち
子育てを心掛けないと
階段を踏み違えてしまう。
逃げて見ないふりをする
子育てだけは
決してしてはならない
そう歴史から実感する。
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