偉人『豊臣秀吉』

豊臣秀吉

天下人になる前後の性格が

二極化することは有名な話

人懐こさや明るい一面と

冷酷非情な二面性。

研究者の間では

元々の残虐性を隠すため

善人の振りをしてきた

そういわれている。

その事柄から

秀吉の幼少期を調べてみると

反抗反発に明け暮れる

エピソードに辿り着いた。

よって

職業的見解を述べてみる。

秀吉の父は農夫であったが

足軽としての傷がもとで

秀吉7歳の頃他界。

その後母は再婚したが

継父との折合いが悪く

継父の厳しい仕打ちに

秀吉の反抗は相当なもので

やられたらやり返し

母の諫めにも耳を貸さない

息子の行動と

継父の板ばさみになった母は

8歳の秀吉を

光明寺へ預ける。

しかし

ここでも秀吉は

数々の問題を起し

寺側は手に終えぬ秀吉を

家に帰そうとする。

すると

秀吉はこう言い放った

「家に帰すのなら、

寺に火を放ち、

寺も坊主も焼き殺す」

戦国時代とはいえ

この発言は尋常ではなく

秀吉の心の屈折が

見て取れる。


子供の反発や反抗は

2歳前後以降の発達段階で

成長と共に存在する

しかし

全ての子が

強烈な反発や反抗の道を

辿るものではない。

親の対応がぶれたり

発達や躾を考えず

感情的に子供を怒鳴るなど

残念な行動をとることで

子は人を睨みつけたり

威嚇をしたり

秀吉のような反発や反抗を

身につける可能性がある


一方

ご家庭に確りとした

躾の目安が存在し

子供の発達段階を理解し

親が理性を持ち対応すれば

驚愕するような反発や

反抗心を身につけずにすむ。


子供の頃に

激しい感情の乱れを出すと

成人しても親になっても

歳をとっても

究極の場面で素が出る。

どんな場面に出くわしても

冷静沈着に対応できる子に

育てるためには

子供の頃にマイナスの感情を

人に向けてしまう行動を

とらせないことが必要だと

痛切に感じている。


秀吉が武将に憧れ

天下統一を目指すまでは

人心掌握術を駆使し策を練り

元々持っている荒々しい面を

ひた隠しにしにできていたが

いざ天下統一を果たし

権力を手に入れると

彼の人格形成の根底にある

冷徹非常な面が露呈し

行動に正当性を精査する

判断能力も失わせた。

豊臣家の没落は

秀吉の幼児期の人格形成に

大きく関係している

私はそう考えている

なぜなら

人はそう簡単に変わらない

いや変われないからだ。













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