偉人『ラファエロ・サンツィオ』
前回のミケランジェロと比較して彼の人生を考えてみる。
できればミケランジェロの記事を先に読んでいただきたい。
ルネサンスの三大巨匠は同じ時代を生きた。
ダ・ヴィンチ59歳、ミケランジェロ29歳、ラファエロ23歳
3人が初めてだ合った年齢である。
先の二人が「絵画が芸術の最高峰だ、いや彫刻だ」と論争をする傍ら
その二人が構築した芸術的テクニックを全て自分のものにしたラファエロ。
彼の穏やかな作品から幼少期と人生について論じてみる。
ラファエロ・サンツィオ
私にとっては貴公子的画家
私事だが幼少期、丘の上にあるカトリック幼稚園に通った。
緑に囲まれた傾斜の強い坂道を登りきると、カーネルサンダース似の恰幅の良い白髪の園長先生が、懐中時計を腰につけ出迎えてくれた映像が浮かぶ。
園長先生の部屋に行くとラファエロの聖母子像の絵画が飾られていた。
おそらくラファエロとの出会いはこの瞬間である。
彼を貴公子と感じるのは園長先生の紳士的立振る舞いが印象に残っているからに違いない。
さて本題に入ることにする。
ラファエロの絵画は気品に満ちていて、穏やかな表情をさりげなく称えている作品が多い。なぜなら彼自身高貴漂う生活を送っていたからだ。
ラファエロの父は宮廷画家である。貴族との繋がりが強く上流階級の生活の中から
立振る舞いや人との付き合い方を学び、当時としては珍しく乳母をつけることなく母の手により育てられている。彼が8歳で母、11歳で父を亡くすも貴公子と呼ばれたのは育ちにあると考える。
作品に滲み出ているように彼の人となりを表す文献にはこう記されている。
礼節をわきまえ、人当たりがよく温和な性格で対人関係を特に重んじていた。貴族のような優雅で上品でおごらず、非の打ち所がない紳士であったと。(女性との関係については打ち所ありありなのだが・・・)
両親を無くし叔父に引き取られるも父譲りの才能が開花し、自らの力で大成を成していった。
しかし両親を亡くしてからの苦労は全てが芸術への欲求と化した。
乳幼児期に確固たる母性性と父性性を子に注ぐことができれば、横道に反れそうになることがあっても、たとえ反れたとしても正しい位置に戻ってくることができると考えているが、それを15世紀の画家ラファエロが示してくれていることに、何世紀もの時代が流れようとも、親子関係の真髄は変遷しようがないのである。
彼は37歳という若さでこの世を去っているが、多くの弟子を抱え活躍している。
才能が有るところに人は集まるが、その事を差し引いても温厚さを表すものだと考える。一方ミケランジェロは偏屈で意固地で才能はあっても一人で仕事に挑んでいたことから、育つ環境の重要性が成人後も大きく影響するものだと二大巨匠の生き様から学ぶことができる。
上記の作品は彼の『アテネの学堂』中央上段には彼の尊敬するダ・ヴィンチが天上を指し
下段中央には肘を付いた気難しそうに物思いにふけるミケランジェロ
下段の右端にそっと自らを配置。その事からも謙虚さが伝わってくる。
ラファエロの作品に聖母子像が多いのは、時の権力者ユリウスⅡ世に取り入ることができず、食べていく為に富裕商人の依頼で聖母子像や肖像画を描くしかなかったから。
この頃は実力ある画家であっても後ろ盾が必要だ。教皇や貴族の依頼無しには画家としての生業は成立せず、ラファエロは持ち前の物腰の柔らかさで多くの聖母子像を描くことに成功した。
ミケランジェロのように母への思いでピエタを制作したのではなく、生活のためだったのが彼の人生から読み解くと聖母子像を薄っぺらく印象付けてしまうが、やはりその絵画を目にすると優雅な気分に浸ることができる。
父母の愛を一身に受けて育った彼には聖母子像に自身の母を投影する必要はなかった。満たされているからこそ別の視点で考える事ができたのだともいえる。
それぞれの場所で生れ落ち、それぞれの家庭環境の影響を多大に受け、それぞれの場所で努力し、自分にあった生き方をすればいい。しかし私たちは親である。
ラファエロとミケランジェロの二極化する人生を目の当たりにすると、やはり我が子には明朗愛和に満ち溢れた人生を送ってほしいものだ。ではどうすればよいか・・・それは親としてのものさしを明確化することに他ならない。
育ちの良さは裕福さや立場に関係してしまう事は否めない。しかし人となりは家庭環境の中で育まれるもの。だからこそ子に注ぐべきものは理性を兼ね備えた愛情に他ならないのだ。
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