偉人『徳川光圀(水戸黄門)』
「タッタタタ タッタタタ・・・人生楽ありゃ、苦もあるさ、涙の後には虹も出る・・・」
懐かしい時代劇水戸黄門。諸国を巡り世直しする東野英治郎扮する光圀の豪快な笑いが好きだったし、主題歌を口ずさむ場所があった。その話は最後にするとして、徳川光圀の幼少期を考えてみよう。
常陸水戸藩の2代目藩主光圀は徳川家康の孫。父は家康の十一男である。
光圀には兄がいた。母は正式な側室ではないため家督争いの元になるとし、また他の要因も絡み、この世に生まれぬよう父頼房が命を下したが、家臣の庇いたてで誕生することができた。しかし複雑な事情から5歳まで家臣の下で養育されている。
その時代特有の理由とはいえ、幼いながらに日の当たらない場所を感じていたはずだ。その後何が起きたのか分からず6歳で徳川の家に戻され、今度は兄を越えて世継ぎに、そして江戸城へ上がった。嫡男であった兄は高松へと出されている。
お家存続の理由で翻弄された子の行き着く先は容易に想像ができる。
子は幼くても真髄を見極める本能がある。利発な子であればそれは尚更だ。自らの根をどこに下せばいいのか不安になると、自暴自棄の状態になる。心の平安を保つ場所がないのだから当然だ。
光圀も18歳の転機を迎えるまで悪評高き世子であった。
荒々しい旗本青年らと付き合い、相撲大会で負けたと腹をたて刀を振りまわし、吉原遊郭へ頻繁に通い、辻斬りまでしたという。家臣が行動を注意するも聞き入れず、江戸市中や藩の中でも厳しい目が向けられていた。時代劇水戸黄門の世界では退治される側である。
そんな彼が立ち直ったのは18歳。書物史記などの読書学を通じ、兄弟間の家督についての内容に感銘を受け、兄を蔑ろにした自分の立場があることに気付いたからである。
世継ぎとしての地位を兄の血筋に継がせると決意し、行動に出るなどは剛毅な性格がそうさせたのだろう。兄より優れていた剛毅さが藩主として適任だと幼い頃に評価されたのかもしれない。
そういえば現代の相撲界にも似たように感じる兄弟がいたような・・・能力の秀でた弟ではなく、兄が継いでいれば名門は残っていたのか・・・
『タッタタタ タッタタタ・・・人生楽ありゃ、苦もあるさ 涙の後には虹も出る 歩いてゆくんだ しっかりと 自分の道を踏みしめて』
主題歌の通り光圀は自らの立場をわきまえ、兄の血筋に水戸家の家督を返し、自身の信念を貫いた。道議道徳の世界を貫くという土台作りは、養育された家臣三木家で形成されたもの。この三木家は宮家に仕えていたこともあり、光圀の尊皇攘夷に繋がったと勝手に考えている。
自らの立場をわきまえる教育はとても大事だ。特に男の子が複数おられるご家庭はこのことを心に刻んで育ててほしい。能力ではなく生まれた順番が重要である。後に生まれた子が能力が高いとしても、長子の参謀役支える側に回れるようにし長子を敬う心を育ててほしい。また長子は常に下に心を配り寄り添い、優しさある子にと願う。
時代劇水戸黄門。この物語もまた副将軍水戸の御老公が、助さん格さんを従え世直しに出る漫遊記。子供達が大海原を渡りきる人生には、仲の良い兄弟同士の支えがあれば親は御の字。そのために今日を大事に過ごしましょう。
最後に冒頭の個人的思い出を回想する。
泊高橋の大きな歩道橋。そこがこの主題歌『音頭水戸黄門 あゝ人生になみだあり』を歌う場所。
幼い弟を連れて通う書道教室。先生から手直しを受けると泣く癖があった弟。教室で泣き、帰り道でも泣く。俗に言う なちぶーである。めそめそする弟を奮い立たせるため手を引いて、イントロのタッタタタと歌いながら重い足取りの弟をどうにか引っぱり歩道橋を登らせる。歌いながら上段まで来ると今度は58号線の車の往来が見える所で足を止める。仕方がないので泣き止むのを歌いながら待つ。3番まで歌い終えると泣き止み、「泣くのがいやなら さあ、あるけ」と付足して家路に向かう。
そんな弟も父になりお父さんらしい事をしている。彼のお陰でこの歌の意味を時折振り返る人生を送っている。『何かを求めて生きようよ』3番の最後の歌詞。黄門様は家のあるべき姿を見極め、世のあるべき姿も見据えていた。今黄門様がいたらコロナ禍の日本国民に何を支持するだろう・・・早くワクチンという印篭で終息の道筋を立ててほしいものだ。
今日も子供達のため、親のため、ちょっこっとだけ意見の相違で揉めた夫の幸せのため、自分を生かしてみましょ。傍を楽にする働くに今日も身を投じてみよう。
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