偉人『北里柴三郎』

日本人に医学を志した偉人といえば誰かを問うと、野口英世、杉田玄白、緒方洪庵、高野長英、前野良沢、志賀清などと並んで名を挙げられるのが北里柴三郎ではないだろうか。今回は彼の人生に影響を与えた家柄と幼少期の教育、そして彼の言葉に垣間見える育ちを考えてみたい。

1829年1月29日熊本県の阿蘇郡小国町北里で庄屋を営む几帳面で温厚篤実な父惟保、森藩士の家柄の出である闊達な性格の母貞の長男として誕生。

北里家は源氏の流れを汲む肥後の名家である。母貞自身も武士の家の出であり幼少期は江戸で育っているため、子供の教育にはとりわけ厳しく甘えを許さない育てかたをしたと言われている。事実柴三郎は8歳で家を出され2年もの間儒学者の叔父の家で厳しく育てられ、尚且つ四書五経を手始めに儒教を学んでいる。生家に戻ってきたからも再び母貞の実家に預けられ厳しい教育を受けた。また学業だけではなく柴三郎が最も影響を受けたのは、源氏の流れを汲んでいる家柄という誇りを持ち武道にも磨きをかけたことである。江戸の末期で藩士が廃止されてから彼は明治維新にかけて軍人という夢を強く持っていたのであるが、時代の流れと両親の強い思いによって医学の道を進むことになる。

乳幼児教育の専門家として想像してみたいと思う。父惟保の穏やかで情が深く誠実な性格からいくと家庭を支えるだけの裕福さはあったという事が伺える、そして子供の教育に大変厳しい思いを抱きつつも闊達と言われる度量の大きな母が教育の実権を握っていたのであろう。

後々柴三郎は武道に励みたいと申し出るが、両親の強い希望での医学の道を進むよう促された。当時の柴三郎は医者と坊主が大嫌いな人物であった。その嫌いなことの一つである医学を学んで来いと言われ、いくら親の言うことが絶対である時代であっても従い恩師の母国語をメキメキと習得し頭角を表すことができたのもある種親子の絆が構築されていたと判断できる。もし親を信頼していなければ親元から離れているのだから武道の道に進めたはずである。親は厳しさだけで彼を育ててはいなかったでろうと容易に想像できる。

幾度も乳児に与えるのは真っ先に母性性であり、その慈しみの中で愛情をかけられ育った子供はどんなに厳しい躾を受けても道を踏み外すことはない。たとえ外れかけたとしてもしっかりと愛情を感じ道に戻ることはできるものである。そのことを考えてみると柴三郎が受けた厳しい他家での躾は功を奏したのかもしれない。

柴三郎は預けられている中で伯父より儒学を学んでいるが、彼が医学の道を歩むにあたり常に心がけていた「自分の良心に忠実であり、他人の身になって物事を考える」この教えはその幼き時に学んだ儒学によるものである。

皆さんは子供の発達で様々な能力を伸ばすゴールデンエイジという言葉を耳にした事があるだろう。乳児の原始反射から様々な能力を伸ばしていく中で最も最終的に総仕上げを行なっていくのが年長児から小学校中学年までであり、この時にすべきことがよく体を動かしてよく学ばせよということである。

柴三郎の預けられた年齢はまさしくこのゴールデンエイジに重なっている。よく学びよく体を動かし、どちらかというと武道の方が得意でその道に進みたいとさえ思っていたのである。

体を動かす運動はこのゴールデンエイジの脳活を最も向上させる事が脳科学上分かっている。脳の様々な部位を動かす運動が集中力や記憶力を高め脳そのものの活性化を図り、学習の能力が上がり鍛えている。そして同時に運動能力が上がることから一挙両得なのだ。そう考えると運動ばっかりで勉強をしないことや勉強ばかりして運動をしないということは非効率のように思う。もし私の子供が幼子を育てる時期が来れば、このゴールデンエイジのチャンスは絶対に逃すなとアドヴァイスするであろうし、絶対に逃してはならないと断言するであろう。

さてここから柴三郎の残した名言について考えてみる。

彼の残した言葉の中に『大業を成さんとするなら、各人がそのための基礎を固めるべきであり、その基礎とは自分自身の勉強です。どんなに志があっても力がなければ他人はその人を信頼しない』と残している。その言葉を職業的目線で置き換えて考える時、小さな子供たちが将来自分らしく、自分の道を堂々と歩んでいくことができるようにするために必要なことは、やはり愛されたという自分自身を肯定する土台となる根幹があること、そしてその上に自分のやりたいことを見つけるために多くの経験を踏ませること、自分自身を磨くために学ぶことであり、それらの基礎のもとに積み上げてきた様々なことが社会性や人との関係を円滑にし信頼を獲得していける基になるのだと考える。

柴三郎がドンネル先生と言われていることをご存知だろうか。ドンネルとはドイツ語で雷という意味であり、ドイツ留学中に研究や実験に身の入らない門下生に対して日常的に大声を響かせて叱咤していたことから付いた呼び名である。日本でいうところの雷親父であろう。柴三郎の頑固一徹な姿勢と医学に対しての深い思いの表れであり、幼少期に厳しく育てられたからこその振る舞いである。厳しく育てられたものは自分自身にも厳しくなり、他者に対してもその厳しさを要求する。その反面そこに愛情を感じることができるのであればその厳しさを受け入れるべきであると考えている。

現代ならパワハラになるのかもしれない柴三郎の振る舞いであるが、これは彼が見てきた医者の生き方とは正反対の人のために、国家のために医術を向上させたいという強い思いの現れからきている。自分自身を鼓舞し人のために働くと言うことは自己肯定感が育っていいないとできないことであり、親の愛情のみならず関わってきた人々から受けた恩恵を授かった証である。そのことを考える時、彼は乳児期には母性性を幼児期には父性性、ゴールデンエイジの児童期には能力を伸ばす学習をしっかりと受けた恵まれた人物であったと考えている。

もし彼がこのコロナ禍に生きていたならどのように対応していたであろうか。露骨な厳しい言葉をオブラートに包んで部下を叱咤しながらも終息の術を導き出すことに努力を惜しまない勝ったのではなかろうか。そんなこんなを想像しながら今日も生徒の基礎固めのために鼓舞してレッスンを進めることとする。

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