偉人『ルイ・ブライユ』

彼の名前を知っているという大人は少ないかもしれない。私が彼の名前を知ったのも子供が持ち帰った塾のテストであった。小学校の教科書に彼のことが掲載されているということから子供たちの認知度が大人より高いということだろう。これから偉人として誰もが知る人物になるのかもしれない。


ルイ・ブライユは世界的に普及した現代の点字の基礎を作った200年ほど前の人物であり、視覚障害者の社会参画向上に多大な影響を与えた人物である。

彼はこのような言葉を残している。

「書く技術を身につけることで人間関係を阻んでいた高い壁を乗り越えることができる。」

この言葉は当時の覚障害者に読むことのみならず書くことをも与え、視覚障害者の地位向上を改善したことを表している。読んで書く手段を持たない当時の視覚障害者にとって自分たちの思いを文章にできないことは、立場を理解してもらう手段を持たず弱者のままで社会参画もままならない、いわゆる底辺層の扱いを受け人間らしく生きることさえ難しい壁がそそり立っていたことを物語っている。

200年も前に視覚障害者の社会を変革ようと努めたのがブライユであり、彼の両親の弱き息子を手元に置いておきたい思いをグッと堪え、彼の将来を考え行動した親の思いについて今回考えていく。

1809年フランスのクープレ村の裕福な馬具職人の家に兄と姉二人の四人兄弟の末っ子としてブライユは生まれた。父シモンは生涯息子ブライユを献身的に支え、母モニクもまたブライユの将来を案じパリのもう学校への進学を促した。当時障害を持つ人々の人権は低く学校へ通うことすらできなかった時代であるが、ブライユは両親の前進的な考え方と比較的裕福な家柄であったということもあり村の学校へ通うことができ、盲学校へも進学することができたのである。

彼が失明したのは3歳の頃、父の工房で遊んでいた時に起きたの不運な事故によるもので右目を失明し、その後感染症により左目も5歳で完全に視力を失った。両親はブライユを村の学校へ進学させるために行動するも偏見と差別で許可されず、その時に尽力してくれたのが村の教会のパリュイ神父である。ブライユと野原で出会った神父は彼の類まれなる利発さを目の当たりにした。そのエピソードがこれである。パリュイ神父はブライユの手に草花を取らせ名前を教え、顔に日が当たり温かいことを伝えながらその光の先が南であることを教えた。するとブライユは背中には日が当たらないから北、太陽は左手の東から登り、右手の西へ沈むことを伝えてきたのだという。そのわずかな時間の中でブライユの好奇心と利発さを感じ学校へ彼の入学を直談判したっという。

教師は目の見えない子供が文字を読むことも書くこともできないことから直ぐに学校に飽き登校しないであろうと考えていた。ところが教師の懐疑的な考えはすぐさま払拭された。授業の内容を全て暗記し、目が見えずとも教師の話す言葉に集中していたのだ。彼が教育という新しい刺激で自分の知らない世界には無限の知識が溢れていることを知り、学びに対しての貪欲さが沸々と湧き上がり、遂にブライユは父に字が書きたいと訴えたのである。

父シモンは息子の訴えを真正面から受け止め、鋲を板に打ちアルファベットの文字盤を作りブライユはその文字盤でアルファベットを覚えた。父のお陰で自ら文字を読み書くまでになったがその書いたものを読むことはできなかったのである。自ら書いたものを読みたい、どうすれば読むことができるのかとその向学心が彼を点字の進歩と世界的普及への研究に導いたのである。

当時フランスでは教育方針が大きく変化し生徒が互いに教え合うシステムが導入されることになった。両親はその方法ではブライユの学びのチャンスが大きく狭められ、他の生徒に遅れを取り、取り残されるとし幼いブライユを一人で遠く離れたパリの盲学校に送り出すことを決断したのである。目の見えない息子を見知らぬ場所へ、そして世話もしてやれない場所へ送り出すことに大きな不安を抱えていた両親は悩み葛藤をしたが、母モニクはルイと同じ境遇にある視覚障害者の大人が町で物乞いをしている現状を目の当たりにし、息子の将来をあのような状況にしてはならぬと考え、また父シモンはルイの向学心を深く知り、親として彼の将来のためにと苦渋の決断したという。今でこそブライユの生まれたクープレ村からパリまでは列車で1時間程度であるが、当時はフランス産業革命以前でありそう易々と移動できる距離ではない。10歳の目の見えない息子を一人盲学校へ送り出すには相当な覚悟と決断力が必要である。しかし両親が立派であるのはブライユ自身に一人でパリに行かなければならないことを伝えた上で意思を確認し、息子の気持ちが向学心でいっぱいであることそしてその気持ちが揺らがないことを受けて決断したことである。幼き障害を持つ子供であってもその意思を尊重するのはフランス人が子供であっても一個人という個人的尊重の考え方があるからであろう。当時の日本人ならどうだろうか、現代においてもやはり日本人的考え方は10歳の子供を他者へ託すのには抵抗があるであろう。

親として子供を手元に置いて育てたい、成長を見届けたいと考えるのは多くの親が持っている感情であろうが、子供の将来に一抹の不安がありそれを打開できる方法が親と子が離れなければならないというのであれば、親としての気持ちや感情と子供の可能性を天秤にかけて子供の可能性を拾い上げる親であって欲しいと思う。子供を育ててきた者として子供は親の持ち物でもなければ、親の言う通りにもならない。子供自身が自分の道を決めることができる人物に成長するよう幼い頃から育てることしかできないのである。子供自身もまた自分自身の考えで決断を下せるのであれば、己の人生に責任を持つことができるのである。そのように子供を育てることができた時にこそ、ルイ・ブライユのように自分なりに成し遂げたことを実感できる子供に育つかもしれない。彼はまたこのような言葉も残している。

「地上での私の仕事は終わったと確信します。私は、最も偉大な喜びを味わいました。」

「私は一人の盲人に支えるつもりはありません。全ての盲人に支えるのです。」

彼の言葉は事実、かのヘレン・ケラーもブライユの点字を元に改良された点字で多くを学び人生が激変した。ブライユの精神性を受け継ぐ後世の人々によってブライユ点字は改良され日本の点字もブライユ点字をもとにしているそうである。ルイ・ブライユの功績は親の決断無くしては誕生し得なかった。私も彼の両親のように子供の選択したことをこれからも尊重していきたいと思うのである。

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