偉人『ジャン・シベリウス』

雪に閉ざされた生活を送っていた頃ホットワインで体を温めながら好んで聴いていたのが、ジャン・シベリウスの5つの小品樹木の組曲より『樅の木』である。3分程度のピアノ曲でフィンランドの長く厳しい冬の世界に想いを馳せて作られたのか、哀愁漂うロマンティカルな曲で男性が語りかけたと思えば女性が囁くようなフランス映画でもまるで観ているかのような神秘的で幻想的な余韻たっぷりの曲である。今回は私の好きな曲から着想を得てシベリウスの作品にみる刺激がもたらした幸運を紐解きながら、子供に与える刺激がもたらす効果について話していく。

1865年12月8日ロシア帝国に強制的に統治されていたフィンランドのハメーンリンナで軍医であり町医の父クリスチャン・グスタフ・シベリウスと母マリアの長男として誕生した。しかしシベリウスが2歳の頃に当時流行していたチフスで父が死亡し、母マリアと祖母、そして姉リンダと4人での生活がスタートし、母のお腹にいた弟のクリスチャンは父の死亡後に誕生したのである。父は高価な酒や葉巻を買い集め、また友人知人から頼まれれば借金の保証人や破産した友人を助けるために自ら借金をし金銭を貸すという困った意味での豪快な人物であった。残念ながらシベリウスもまた父のこのような贅沢な浪費を繰り返しスランプ時に酒とタバコに溺れる一面があった。なんとも親子の不思議な縁を感じてならない。

27歳の母マリアは夫の残した借金のために裁判所の破産宣告を受け入れ身の回りの衣類だけの持ち出し実家に戻り、祖母と兄弟姉妹の援助を受けシベリウスを含む3人の子供を育てることになった。

シベリウスが音楽と出会ったのは父方の祖母宅にあるピアノを愛好する叔母エヴァリーナの影響が大きい。そのピアノで叔母からピアノを習い最初はピアノに興味を持っていたシベリウスであったが、10歳で叔父ペールに与えられたヴァイオリンを与えれメキメキと腕を磨いていったのである。シベリウスは当時ヴァイオリニストになることを志望していたが叔母のエヴァリーナは、シベリウスのヴァイオリンとピアノの演奏才能よりも即興での演奏が優れているとして作曲家になることが有望だと本人に伝えていた。ヴァイオリニストとなり音楽で身を立てようとしていたシベリウスに対して彼の周りの大人は反対を唱え、当初はヘルシンキ大学の理学部に進学するも法学部に変更し、1年たたずして音楽の道を素敵れずヘルシンキ音楽院に進学する。大学在学中に恩師に見そめられその指導により頭角を表しヴァイオリンは勿論作曲も同時に学んでいく。やがて奨学金を得てベルリンやウィーンへの留学を果たすのであるが、内向的な性格のシベリウスは極度のあがり症で在学中の演奏会でも演奏の失敗を繰り返し、ウィーンフィルの試験にも落ちてしまヴァイオリニストの道を諦め作曲家への転向を図ったのである。貧しい生活の中彼や彼の姉弟は父方の叔父や叔母の影響を受けて音楽を嗜み、母方の兄弟姉妹の援助でそこそこの生活か送れ教育を受けることができたことは何をおいても幸せなことであった。

父がおらずとも彼らを支える家庭環境の中で自らの歩む道を決定することができたシベリウスは、10年かけて夢見たヴァイオリニストへの道を断念んするも叔母の言葉通りに作曲家への道に方向転換した後シベリウスは、ハイドンが確立しベートーヴェン大成させた交響曲を誰もが想像しなかったいろいろな顔を持つ華やかな交響曲としてより高みに押し上げたのである。これまでの名だたる作曲家の作品を見てもその作家の特徴が傾向として出現し似通っている部分を多く見ることができるが、彼の7つの交響曲は7つともが別の人によって作曲されたようであり、その交響曲全てに共通する手法が全く見当たらないのである。

交響曲を書くたびに新しい扉を開き進化し続けたスペシャリティな作曲家といえよう。おそらく彼の交響曲を聞いたことのない方も多いと思うがこの機会に是非とも聴き比べをしてほしいものである。

第1交響曲はチャイコフスキーの『悲愴』から着想を得たものとなりパリ万博で採用され国際的知名度を上げることができた作品である。交響曲第2番では彼を支援し続けた男爵の計らいで出掛けたイタリア旅行からの着想を得てロシアに抵抗するフィンランドの民主を一つにした愛国心的作品と受け入れられた作品に、交響曲第3番ではモーツアルトやハイドンを彷彿とさせるような明快で快活的な新古典主義的作品を仕上げ、交響曲第4番では自らの病が影響していると言われているが彼の最高傑作と名高い作品となり、交響曲第5番は16羽の白鳥が飛び立つ姿に感銘を受け作曲された美しく壮大な雰囲気を出す作品となった。そして交響曲第6番は牧歌的で清らかなルネサンスの宗教的を取り入れたものであり、交響曲第7番は6年以上の時間を構想にかけさまざまな要素を取り入れた独自の世界観を作り上げたのである。作品を生み出すのにスランプに陥りその度に誰かに助けられ、同時に酒に頼りを繰り返しつつも全く異なるものを生み出す彼の才能はどこからきたのであろうか。

彼が7つもの異なる作品を書き上げることができたのかは私が感じているのは幼少期のさまざまな刺激から毎回新しい考え方で一つのことを捉える環境にあったからこそだと考えている。

一人の人間が全く表情が違う作品を産み出し続けるということは至難の業である。交響曲というものを一括りにせず、『交響曲とは一体何であるのか』を毎回新しい視点で考え見つめていたからこそ成し得た大偉業である。

シベリウスの家はスウェーデンの流れを汲み幼い頃はスウェーデン語を使用していたが、8歳でフィンランド語を学び始め学校では言葉の壁を感じつつ緊張した学校生活を送り、夏休みには父の実家や親友の家を中心に日常からは少し距離を置き森の中で自然に触れた生活を送った。日中は自由に生活を楽しみ音楽に夢中になる休暇を過ごし、時には兄弟トリオで音楽活動に身を投じたり、祖母の厳しい躾に背筋を伸ばした緊張の生活を送りつつ、叔父の船で優雅に南国のバナナやオレンジなどのフルーツを貪り尽くす少年時代を過ごしたり、叔母と静かな海をボートで巡りながら音楽談義に花を咲かせ、一日の終わりに陽が海に沈む瞬間の茜色の空を眺め神秘的で刻々と変化する毎日異なる時間を楽しんだという。日々刺激の多い生活に幼い頃から身を投じていたからこそ彼が大成した理由なのだろう。

才能あふれる多くの芸術家たちが作品を生み出すときにインスピレーションを求めてきたが、その刺激こそが作品の源であり、『刺激が多い』という言葉の奥にさまざまな力を爆発させる源がある。

そう考えこれまでの生徒たちのことを振り返ってみると合点がいきその共通性が見えてくるのである。

子供に多くの経験をさせよという話をこれまでに何度も声を大にして唱えてきた。多くの経験=多くの刺激である。刺激が多ければ多いほど子供にとっては電流が流れるほどの衝撃がある。だから感受性が高くなりさまざまな能力効果が上がる=自頭が良くなる。おそらくシベリウスという人物は幼少期からの刺激が人一倍あったからこそ、多くの作曲家が成し得なかった交響曲の豊かさに到達したのだと考える。

つまり子供の能力を最大限に伸ばし引き出したいのであれば、多くの刺激を毎日多く与えよということである。毎日の刺激とは何ぞや・・・そのことについてはレッスン時に質問して貰えば皆さんにお教えしよう。私もこれで子供を育てましたというコツの話を。

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