偉人『尾崎豊』

前回2023年11月10日の偉人『石川啄木』の記事の流れで感性と感受性について記事を書いた。今回は没後30年経っても尚作品は色褪せず歌い継がれている尾崎豊氏の感受性について話を展開してみたい。

彼の作品は、彼の優れた感性そのものでその上に感受性が上回り作品を生み出されたと言っても過言ではない。しかし彼の26年という短い人生を紐解いていくと純粋であまりにも真面目すぎたが故苦しみが大きくなたのかと感じてしまう。今回は感受性豊かな尾崎豊とはどのような人物なのか、そして子供たちの成長との関わりを考えてみる。

彼の作品を耳にすると大人に対する反発、反抗、不信感を抱えていた内容を読み取ることができるが、その思いは思春期で大人を観察していると自然と湧き起こってくるものだ。大人の本音と建前が見え隠れし矛盾を感じ社会が見えその歪みを強く感じると反発や反抗といった方向に進むのである。しかし全ての若者がその道に進むわけではなく世渡り上手にわたるものもいれば、その歪みを受け入れつつ成長していく者と様々である。しかし彼はあまりにも真面目すぎてその答えを得るために葛藤し自分を追い込んでしまった。彼が修正求めていたのは自分らしい自由とは何なのかということを世に問いかけ続けた人物であった。

前回の石川啄木の記事『15の夜』で盗んだバイクで走り出すというフレーズについて感想を述べたのであるが、その後にあるお母様から尾崎豊氏は相当な不良だったのかとの意見を頂いた。彼の中高生時代の喫煙飲酒、喧嘩や停学処分退学ということを知ればそのように受け取るのであろうが、褒められる行動ではないが決して暴力的な少年時代ではなかったと考える。この作品は10歳まで育った幼馴染がいる中学校へ越境して通いその気心知れた仲間と共に過ごした中学校3年間の思い出を形にしたもので、仲間の髪の毛を先生が切り落としたことがきっかけで先生に異議を唱えたそうである。今となっては同級生の中では懐かしき良き思い出だったそうだ。また盗んだバイクではなく兄から借りたヤマハの電動スクーターパッソルでの実体験だったそうである。

1965年11月29日陸上自衛隊防衛事務官の父と母の次男として東京に誕生し、練馬で育ち小学校5年生10歳の8月に埼玉県朝霞に転居する。しかし夏休み明けというのは転校しない子供でも登校したくない気持ちに駆られ、最も子供の自殺者が多いタイミングでもある大変デリケートな時期でもあるのだ。尾崎豊氏もそのタイミングで転校先に馴染めず登校拒否に陥るが、その当時転校生ということで目立ち男子生徒の反感をかったというのが事実のようだ。毎朝学校に行く素振りをして共働きの両親が出掛けたのを見計らい自宅に帰り、兄のクラシックギターを独学で学んだのである。井上陽水やさだまさしを弾きこなしたのが音楽の出会いとされているが、実は父が主としていた尺八も彼は吹きこなしている。登校拒否の中でギターにのめり込む彼を見た父が基礎からギターを習ってはどうかと提案すると、それはまだるっこしい、音楽の本質を掴んでおきたいし早く表現したいんだ伝えたそうである。中学校ではフォークソングをコピーし、青山学院高校に進学してからはオリジナル曲を書いていたという。そして仲間の発する言葉を大学ノートにものすごい集中力で書き綴り「なぜ君はそう思うのだ。どうしてそう感じたのか」と同級生が舌を巻く程文章化し身の回りで起きることや目の前に広がる情景や風景を言葉にすることを徹底して行なったという。彼が友人と行ったやりとりは本質を見抜こうとするもので、またいかに言葉として表現する力も持っていたのである。それを物語るのが彼が小学生の頃に読んだ短歌である。『父のあと 追いつつ下る山道に 木の葉 洩る陽の かすかにさせり』 この小学校の頃に読んだ短歌を読んで父の背を追いながら目にする情景が目に浮かぶ作品を作っていることを考えると、もう既に作詞をする片鱗が現れていたといえよう。

ここまでくると彼の中に備わるエネルギーが感じられる。まず一つ目は大体弦楽器を始めると指先の痛みで断念することが多い。しかし彼はなぜそれを克服できたかは父の影響で始めた尺八にあろう。尺八は音を出すのにも大変な楽器であり、それを小学生でこなしたという経験はクラシックギターを弾きこなすことで役に立っているはずである。また父が嗜んでいた短歌も彼は嗜んでいたため学習教科の中でも国語は成績が良かったという。そして彼がなぜ理不尽な教師の行動に激怒したのか考えてみると、彼が小学生で関東代表にもなった空手に影響されているのではないかと強く感じている。空手は礼儀正しさや謙虚さ、そして何よりも相手への配慮を重んじるもので相手を倒す武道ではなく戦わずして勝つという精神性を追求するものであるそうだ。どのような状況下にあったか知る由もないが教師が突然生徒の髪を断りもなく切ってしまうのは、相手への配慮がないということで怒りが沸点に達したのであろう。そのような一面がある一方でデビューから数年は音楽を共にする年上のバンドマンたちや関係者には礼儀正しかったそうである。

彼の音楽センスは一気に出来上がったものではなく、育ってきた環境の中で経験したことと感受性の豊かさが融合してできたものである。


ここからは彼の感受性について考えてみたいと思う。

感受性の強い豊かな子供というのは気分の変化がはっきりとしていて笑ったり泣いたり、楽しさや悲しさを感じる感度がものすごく高くわずかな感情が目まぐるしく変化するのが特徴である。感情の浮き沈みが激しくなることもあり手を焼く親御さんも多いと思うが、親として何よりも重要なのは穏やかで静かな躾や生活を心がけることである。それは楽しいこともそうでない苦しみや悲しみなどのネガティブ感情であっても同様で、落ち着いてじんわりと柔らかに物事を感じ取ることができるようになり導くことが重要だと考えている。しかし彼がそのような環境になかったかといえばそうではないようだ。父の嗜むことを一通り行った幼い時や母が彼を思い折に触れて接していたこと、そして彼が世に出るきっかけのデモテープを音楽関係者に送っている。両親の愛情はやはり彼には届いていたと思うのであるが、中学校から高校時の思春期ならではの悶々とした思いがやってはいけない喫煙飲酒に喧嘩と悩ましい行動に移行してしまったのであろう。しかしそのような問題を起こせば味方である親も何かせずにはいられない。そして生命に直結するオートバイ事故を起こすと親も教師も彼をどうにかしなければならないとなるのだ。大人による強制でがんじがらめにさせられたと彼の意識が働いたのかも知れない。感受性の高い子供が大人の威圧や強制や抑制そして矛盾に反旗を翻すのは仕方がないことだっただろう。感受性の高すぎる子供の扱いは難しいものがあるが、そこは思春期になってからどうにかしようとするのはさらに難しいと考える。矛盾だらけの世の中を大人が虚勢を張って生きる姿で世の中に折り合いをつけて生きている姿を子供が見るのであるか尚更思春期の子供が理解するのは厳しい。よっていかに幼い頃から多種多様の考え方や生き方があることや自分自身を肯定して生きていくこと、無償の愛を与えてくれる存在がいることを子供に伝え続けて育てなければならないと考える。

音楽を楽しんでいた15歳から数年は尾崎豊氏は本当に音楽好きで素直な少年であり、自分自身の音楽の方向性をしっかりと見定めていたという。しかし彼の音楽が一人歩きし10代の若人の想いを伝える代弁者となり彼自身が神格化され、やがて彼は音楽を生み出す苦しみに苛まれていったようだ。

なぜ自分自身は生まれてきたのか、そしてなぜ苦しみながら生きていかなければならないのかと。その感受性のベクトルが人を信頼できない、身近な人々に対する独占欲、そして自分自身に対する愛情を確かめるような行動を起こしていった。自分自身の愛する人の愛情をとことん確かめるかのように20歳以降は生きていたようである。無期限活動停止を発表した少し前から彼の困難が始まったのであるがカリスマいう虚像と戦っていたのだろうか、精神的に追い込まれたのか覚醒剤で逮捕された。しかしその通報をしたのは実父である。知る人は知る事実であるが彼の5歳上の兄は埼玉県弁護士会の会長となっている人物である。家族は薬物から彼を救うために葛藤し奮闘した。兄は彼を立ち直らせようと取っ組み合いの対峙をしたそうである。そして兄は彼の死を受けて子供の権利を守るために少年事件や児童虐待事件を担う弁護士になろうと決意し現在もその道に深く関係しているそうだ。母は彼が逮捕され出所した時には赤飯を炊いて再出発を祝ったという。尾崎豊氏は愛情深き家族の中に育ったことは明らかである。がしかし彼の破天荒なまでの行動は何がそうさせたのかと言えば想像でしかないが感受性の豊かさと同時に一人ぼっちになる登校拒否の寂しさの中にその原因があると私は考えている。その時に深く色々なことを考えすぎ、感じすぎたのではないだろうか。その一人でもがく時間があまりにも寂しすぎて短い人生の晩年には最も関係性の深い人々の愛情を試すような行動をしていたのではないだろうか。

年齢的に尾崎豊は私たちの年代にはドンピシャであるのだが、彼の短髪な作品は耳にしていてもアルバムを聴くということはなかった。しかし主人と結婚した時に彼が持っていた尾崎豊氏の数枚のCDを今回聞いてみたのであるが、彼の人生と歌詞を擦り合わせていくと実生活では真逆のことを行い、歌の中では絆、愛や信じられるものについて記している。

彼の10代で作った多くの作品は大人や社会に抗い反旗を翻すような思春期特有の内容が多いが、20歳以降の作品は自分の中にある虚しさや苦しみ、愛情の裏返しの行動に自分自身が葛藤しているような戦いでもがき苦しんでいたように感じる。

生きるとは何か、自由とは何か、自分らしくあるということは何のかをただただ世の中に投げかけた人物であったと考えている。深く考えてしまう感受性が高かく理想をどうにか形にしようともがき苦しんだのだと考えている。もし彼がゆっくりとした下積みをしながら世に出てきていたのならば、音楽を生み出すことや神格化されるプレッシャーを感じることなく好きな音楽を自由に奏でていたのではないかと思う反面、すごい速力で走り切ったからこそ作品が世に生まれ30年余りが経っても若者の側に寄り添い続けているのではないだろうかとさえ思う。いやもしかするとロッケンロールの内田裕也氏のような人生を送り世の中話探せていたかも知れない。しかし彼をサポートしていた人々は大変な思いをしてきたのではないだろうか。彼の感受性は様々な方向にベクトルが向き予想できるものは何一つなかったであろう。そのコントロールは彼自身も周りの人々も容易にはできなかった。ガラスのような繊細さがある一面と鋼鉄のような一面もありそのどちらも彼であり、その繊細さとどうにもならない頑なさをどう生きやすいかに変えていくかで人生は大きく変わったのではないだろうか。

感受性の強い子供には幼い頃からその特性を押さえて、子供が成長する上で生きやすさと生きづらさを天秤にかけながら導くことがとても重要である。






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