偉人『ジョン・スノウ』

イギリスに住んだことのある方ならジョン・スノウという名前に心当たりがある・・・それはパブだと浮かべることもあれば、19世紀のロンドンのコレラ流行を水の汚染と特定した近代 疫学の父だとピンとくることもあるだろう。今回取り上げるのは後者のコレラ流行で安全な飲料水の必要性を実証した麻酔科医ジョン・スノウを取り上げる。

1813年3月15日、イギリス・ヨークシャー州ヨーク市の労働者階級の家庭に生まれる。父ウイリアムと母フランシスの9人兄弟の長男として誕生する。父ウイリアムは炭坑労働者で経済的には厳しい子供時代を過ごす。勉学への意識が高く数学はずば抜けていたが経済的苦しく進学することはできず、14歳で医者の見習いとして働きながら外科と薬学を学び医療の道へ進むきっかけを得た。そして1844年31歳で正式に医師の資格を得る。医学へ進むこと遅れたものの外科と麻酔科の医師としてクロロホルムとエーテルの使用に関する研究を行い、麻酔の安全な使用法を確立し、ヴィクトリア女王の産科麻酔を成功させイギリス王室のお抱え医師となった。

1854年8月31日の夜ロンドンでコレラが大流行した。激しい下痢と嘔吐で脱水を引き起こし感染者の半数が命を落とす病で、3日で127人終息するまでに616人もの命が奪われた。当時は感染の原因を瘴気(しょうき)という悪臭を放つ空気で感染すると考えられ、悪臭を放つ空気を肺に入れないようにタバコを蒸すことを奨励する大学まで存在していた。またジョン・スノウが訪れた病院ではコレラ患者に水銀を飲ませアヘンを与えてえ苦痛を和らげるという世にも恐ろしい治療が施されていたのである。この事実を目撃したジョン・スノウはすぐにこの治療を止めるよう促した。そして公衆衛生局の会議において専門家らが瘴気説を唱える中たった一人空気感染ではなくコレラ流行は「水」にあると訴え続けた。

ジョン・スノウはブロード・ストリート(現ブロードウィック・ストリート)でのコレラ流行の調査を実施した。実際に感染者の家を訪れ話を聞いて歩き、地図上に感染者や死亡者の年齢・性別・職種をプロットし、その上で水が関係している可能性があることを確信し使用した給水ポンプを地図上に落とし込んでいったのである。そしてブロード・ストリートの井戸の吸水ポンプの水が原因であると突き止めた。

行政当局に井戸のポンプハンドルを撤去させ流行が沈静化したとされている。しかし現実的にはこの感染エリアから多くの人々が逃げ出していた事実もありポンプハンドルの撤去前から感染者数は減る傾向にあったとされている。生前は彼のコレラ原因説は広くは受け入れられなかったが、後に細菌学の発展とともに彼の仮説の正しさが証明されることとなった。

ここでしっかりと理解しておかなければならないことは、誰もがデータの収集は行えてもジョン・スノウのようにデータをどのように使うかということがコレラ流行のアウトブレイク(特定の区域や集団で、通常予測される以上に感染症の症例数が増加すること)やエピデミック(アウトブレイクが、最初に感染症が急増したコミュニティよりも広い地域に拡大した状態)そしてパンデミック:(エピデミックが国境を越えて広がり、複数の国や大陸に拡散・同時流行した状態)に陥る時の判断では重要である。つまりジョン・スノウは「疫学的調査手法(地図化、データ分析)」を用いて感染経路を特定した最初期の人物であり、実地調査と統計の重要性を強調し、公衆衛生政策に科学的根拠を持ち込み現代の疫学、感染症対策、都市衛生の原点を確立したのがジョン・スノウなのだ。

しかし当時の医学的そして公衆衛生の考えと彼の導き出した結果は大きな隔たりがあり彼の考えが闇に葬られそうになった。感染の食い止めや原因究明という同じ方向性を見なければならない医者や専門医でさえも彼の研究やデータや論文に異議を唱え、新興宗教かと揶揄する意見や彼の意見を非常識として脅しをかける者さえいたのである。今となっては誰の差金か不明であるが彼の集めたデータが家ごと燃やされメイドが命と引き換えにデータと資料を守り切った。その批判や妨害にあいながらも彼が自分自身の内省に従い突き進むことができたのは彼の育った環境と性格的特徴が大きく関係している。

ジョン・スノウの父は炭鉱夫として働いたのち田舎に越して農業を営んだ。しかし頻繁に洪水被害に襲われ、不衛生な状態と公害汚染を経験し道路は不衛生で川は市場広場と墓地からの流出水や下水で汚染されていた環境で育っている。つまり彼自身が下層階級で汚染された環境悪化を体験し育っているが、医師や専門家の多くは富裕層的環境で暮らしていることから水の汚染を疑う発想がなかったのである。事実多くの富裕層はコレラに罹患せず労働階級の貧しい人々がコレラの犠牲となっていたのである。


彼の性格的特徴を考えてみよう。彼は数学的発想の持ち主であり、論理的・科学的思考を基に常にデータを重視し、感情論ではなく冷静で理詰めの結論を導き出すことに懸命であった。つまり他者の意見に流されることなく自分時強いの意見や考え方を証明しよう、真実を導き出そうとする傾向が強かったと言える。よって瘴気説(悪臭による空気感染)を疑い観察・統計・地図などの客観的データに基づいて分析し、データを可視化した先駆けになり得たのだ。また彼の家庭環境が貧しく進学することはできず病院での見習いとして働かなければならなかった。医師になるためには遠回りし時間を要したことから粘り強く信念を貫くことが身についたと考える。持論であるコレラが水を感染源とする説が医学界で批判されても撤回せず、感染者の家を一軒一軒歩いて回って調査し、妨害を受けながらも諦めずに証拠を集め続けた。かなりの強い信念の持ち主であり、ブレることなく一貫性がある行動を起こし続けたのにはやはり多くの苦難や障害が彼の性格を作ったと言えるのではないだろうか。つまり目立たず、騒がず、だが確固たる信念と知性で社会を変えた人物であることは間違いない。

ジョン・スノウの人生にはいくつもの困難や障壁があり、それを彼はが乗り越えることができたのは厳しい環境で育ち常に困難や苦難を味わうことが多く、その困難や苦難を境遇として受け入れるしか無かった人生を持ち前の真実を突き止めようとする信念の強さ、そのためにどのように行動を起こすのかを常に考えてきたからこそ「近代疫学の父」として称えられる行動に直結していたと考える。ロマ書に『患難をも喜ぶ、そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり』という言葉がある。正にジョン・スノウはこの言葉を実践し生きた人物ではないだろうか。これまでの偉人のようにそして孟子の言葉にもあるように「天の将に大任を是の人に下さんとするや、必ず、先ずその心志を苦しめ、その筋骨を労す」ということであろう。困難、生涯、障壁などはその人物が大きくなるために必要なものなのであろう。それらを受け入れることができれば大きく成長することができると考えてもいいのではないだろうか。

今子育てでうまくいかないと嘆いている方がおられれば、それこそしっかりと受け止めて喜んで色々なことを試しても良いのではないだろうか。偉人の人生を紐解くと困ったと悩む苦しむ時にこそ飛躍するチャンスが盛り込まれているのだから。それこそが大きな喜びを手にする奥義ではないだろうか。


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