偉人『フランツ・ヨーゼフ・ハイドン』

今週の提案記事は『大きさを測るNo.6時計』(記事はこちら)であるため偉人は誰にすべきか・・・SEIKOの服部金太郎(記事はこちら)はすでに取り上げ済みであり、シチズン(CITIZEN)やカシオ(CASIO)創業者にしようかとも考えたのだが、それでは私らしくもなく芸術の秋であることからやはり時計に関した作品を作り上げた画家もしくは音楽家で行こうと決めたのである。時計に関する画家はサルバトーレ・ダリ(記事はこちら)、藤田嗣治かと考えたのだがエッジが効かないのでフランツ・ヨーゼフ・ハイドンにすることにした。その理由は彼の作品《交響曲第101番 ニ長調「時計」》の中に子供たちが想像の翼を広げて時計の針音を拾えたら素晴らしいであろうと頭に浮かんだただそれだけである。

その前に折角なので選択の決定打となった《交響曲第101番 ニ長調「時計」》について軽く聴き所を記しておこう。この作品は絶頂期の1794年ロンドンで作曲され第1楽章は序奏付きのソナタ形式でドラマチックな展開、第2楽章に登場する規則的に刻まれるような伴奏のリズムは「チクタク・カチカチ」という音を思わせるところが特徴的で、まるで時計の音のように聞こえるため「時計(The Clock)」という副題がついた。

第3楽章は優雅ながらも力強いメヌエット、第4楽章は躍動感あるロンド・ソナタ形式でユーモアと技巧が光るフィナーレで親しみやすいメロディであり、クラシック初心者でもハイドンの美しい音に癒されるであろう。ハイドンの作品はどれも秀逸な作品ばかりであり、時計の学習をしている生徒さんには時計を連想させる部分を聴き探し出すだけではなく、その他の作品にも親しんでほしいものである。

ハイドンは弟子から「パパ、ハイドン」と呼ばれ、その明るく温厚でユーモアがあり謙虚さと誠実な人柄を持っていたとされる反面、逆境にも動じない芯の強い人物であり自己鍛錬を怠らない努力家であったと言われている。自分に厳しい人は人に厳しい面があるがハイドンは自分には厳しく人には大変ソフトな私には見習うべき人物である。彼はエステルハージ家の宮廷楽団長になり契約で楽団員とは一定の距離を置かなければならない立場にあったのだが、適度な距離を持ちつつも楽団員の立場になり支援をしていた逸話が結構残されている。だからこそ同僚や後輩から「パパ、ハイドン」と親近感をもたれ、18世紀のオーストリアの「交響曲の父」や「弦楽四重奏の父」と呼ばれる音楽史上の偉人となりえたのであろう。前置きがかなり長くなったので今回はハイドン自身が語っている『自分の中に存在する陽気な心』について考えてみることとする。

ハイドンは晩年にこう語っている。「私は、非常に貧しかったおかげで、独学で多くのことを学ぶことができた。孤独の中で、音楽の真理を見つけることができたのだ。」「神は私に陽気な心をお与えになったので、私は困難なときでさえ笑って人生を楽しみました。」

これらの言葉からみなさんは何を思い何を想像するだろうか。

彼の生まれはバッハのように音楽一家に生まれるなど恵まれた環境にはない。父はマティアスは伯爵家に使える車大工で、母マリアも伯爵家に仕える料理人。貧しい家庭ではあったが両親が共にハープを趣味で演奏し音楽に親しんでいた家庭に生まれたのが幸運だった。

ハイドンが5歳の頃近所の人々から「この子は歌がとても上手だ」と注目されるようになり、それを聞いたハイドンのいとこでハイニヒェンという町の教師で聖歌隊を率いていた親戚のヨハン・マティアス・フランクが、両親のハープに合わせてヴァイオリンを弾き拍子を正確に弾いていることに驚き、5歳のハイドンを自分の家に引き取り基礎的な音楽教育を施した。その後ハイドンは歌・クラヴィーア・ヴァイオリン・管楽器・ティンパニーを教わり教会のミサでの合唱団にも参加するなど音楽の英才教育を受ける。その後ウィーンのシュテファン大聖堂の楽長をしていたゲオルク・ロイターにスカウトされ8歳でウィーンの少年聖歌隊に属する。その後ハプスブルグ家の音楽隊に属する一流の音楽家から一流の音楽教育を受ける機会を得た。ハイドンは恵まれた教育を受けられただけではなく、彼の凄いところはその教育だけでは飽き足らず自ら独学で音楽理論を学び作曲をするようになったことである。しかし声変わりをし聖歌隊をやめさせられると、暖炉のない屋根裏部屋での貧しい生活をしながら自学で音楽を学び、尚且つ当時一世風靡していた声楽家教師のポリポラのピアノ伴奏をし歌や声楽の基礎を学んでいった。そのような努力を経て21歳で注目の作曲家として自立する。時は流れエステルハージ家の宮廷楽団長となるとここから多忙を極め彼の知名度はどんどん上がっていく。マリアテレジアに一目置かれ、イギリスの国王ジョージ4世ジョージ・オーガス・フレデリックにも寵愛を受けた。モーツァルトとも交流し60歳でベートーヴェンへの指導を1年行った。ヨーロッパ全土で絶大な名声を手に入れたハイドンはイギリスでの名誉と高額な報酬を手放し、ウィーンのエステルハージ家の音楽団に奉仕する決断を下す。そこから鰻登りの成功を収めるわけであるが、晩年彼は弟子やかつてのの愛人、遠い親戚、仕様人や女中にまでも遺産の贈与を約束した。つまり貧しい家庭に生まれ努力を怠らず成功した者は今も昔も人に分け与えるという人物の話はよく耳にする話である。彼もまた人から受けた恩をまた誰かに返すという奉仕の心と精神を持ったいた人物なのである。人間は自分自身のためには行動するよりも人のために行動することが成功の秘訣であると書籍で読んだことがあるがまさに彼もそのような人物だったのだ。


それではハイドンの心の陽気さはどこから生まれた者なのかを考えてみる。

1、多くの人から受けた幼少期の愛情と褒め言葉

ハイドンが陽気な性格であったことについて考えてみると家庭環境と幼少期の体験が作用していたであろう。ハンガリー国境近くのオーストリアの田舎ローナウという小さな村で生まれ家庭は貧しくも音楽好きな家庭だったこと、自然の中で育ち素朴な生活を送り幼いながら歌を歌うことで他者から認められる経験をしていたことは、単純に褒められると嬉しい楽しいという経験を5歳までに無条件の愛情として与えられていたと考える。つまり親からの愛情もさることながら近所の人々や彼の歌を教会で聴いた人たちから褒めてもらえる喜びを得たものも大きな賜物であった。



2、ユーモアとウィットに富んだ性格

そして彼自身が茶目っ気があってユーモアとウィットに富んだ性格であったことは、彼の作品からも残された逸話からも周知の事実である。子供は3歳から5、6歳ぐらいまでに戯けたりふざけたり人を楽しませようとする成長時期がやってくる。その時期をハイドンは大いにのびのびと過ごしたからこそ、人を驚かせる、楽しませる、喜ばせるということを行うことができたのである。居眠りをする聴取を驚かせるためにわざと静かな旋律のあとに突然フォルテで大音響を入れるというトリックを仕掛けた曲を作曲している。ハイドンはさぞかしその音楽会にほくそ笑んだことであろう。しかしただ人を驚かせるだけでなく、楽団員の不満を作曲に取り入れ、音楽会で演奏し楽団員が一人二人と減っていく様子で伯爵に楽団員の不満を直訴したというエピソードも残されている。ハイドンは周囲を楽しませることを喜びとしていた人物であり、また問題解決も温かさや配慮を持って行う一面がありその知的で気の利いた思わず感心する高い応答が出てくるウィットさに富んだ性格であったのは、紛れもなく知的レベルと社会性の高さが窺える。幼い頃から両親の元を離れ大勢の子供と共に過ごす中でその場の状況や人の心情を理解する社会性が身についていたと考えていいだろう。


3、人生観・宗教観

ハイドンは信仰心が厚く創作においても「神のおかげでうまく書けた」「「神の助けがなければ、私は何者でもなかった。」と語っていた。ハイドンの人生は必ずしも順風満帆ではなく子供時代は貧しく、晩年は病気に苦しむも神への感謝と信頼を失わず、彼にとって信仰は形式的な宗教儀礼というよりも日々の生活や芸術を通じて神を賛美すること(感謝すること)だったように思う。宗教に馴染みのない人にとっては神を賛美するというのは何かしら引っ掛かるものがあろうが、お盆で我々が懐かしい祖父母や先祖、近しい人が帰ってくることに心を寄せて数日過ごすことと似ているように思う。つまり感謝という思いが宗教を信じる人々の神を賛美するということになるのではないだろうか。ハイドンの人生は子供時代から青年期は貧しく、晩年は病気に苦しんだが彼は神への感謝と信頼を失わず常に神と共に感謝と共に歩んだ人生だ。ハイドンの謙虚さや他人への配慮と優しさは神への感謝によって導かれ、ハイドンの内面的安定や幸福感に大きく寄与したのかもしれない。



4、宮廷音楽家の安定した生活と人生観

ハイドンは30年近くハンガリーのエステルハージ家に仕え比較的安定した生活を送った。規則正しい仕事と創作に集中できる環境があったことが精神的な安定や陽気さにつながったとも考えられる。生活の心配がないという経済的な心の余裕はその人となりを作り出す。法外にお金を使うものもいれば、ハイドンのように自分だけではなく他者のために活きたお金の使い方をするものもいるだろう。ハイドンの育ちや苦難の時代にお金を稼ぐということの重みを知ることを経験している人物は彼の人生観を作り出すことになり、ハイドンという大きな器を持つ人物像を作り出したと言っても過言ではない。


5、 創作による喜びと自己実現

ハイドンは非常に勤勉で努力家で交響曲、弦楽四重奏、ソナタなど、多くのジャンルで数百曲にもおよぶ作品を長年にわたって作り続けた。また朝早くから仕事を始め規則正しい生活を送り、その努力と日々の実直に向き合うことで開花した才能を発揮しそれが認められ喜びと満足感を与えていた。その充足感が自然と明るい心に繋がっていた可能性は十分に考えられる。「神が私を陽気な心で祝福してくださったのです。だから私は悲しげな音楽を書くことができないのです。」このような言葉からも、ハイドンの作品の明るさや美しさ一点の曇りもないことは単なる性格ではなく、彼の日々の生活から紡ぎ出された人生哲学や価値観から来るものだったと解釈している。

ハイドンが陽気な心を持っていた理由はこれら5つの要因でできたものと考える。そう考えると我が子の環境はどうだろうかと考えてみるのも良い。自然に囲まれた素朴な幼少期を謳歌しているだろうか、子供の好きなことを通じた喜びと創造を獲得できているだろうか、心身ともに安定した生活環境の中で育っているだろうか、ユーモアを愛する性格を育めているか、ときに厳しい環境を与え子供自身が強くなる環境も与えているだろうか。それらの後押しを親としてできているだろうかを考えみる日にされてはどうだろうか。








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