偉人『フランク・シナトラ』

男児の生徒さんが春頃から夏休みを楽しみにしていた。その理由は「幼稚園がお休みでずっとママと一緒だから」と答えた。幼稚園でのお迎え時のママとのスキンシップも、イタリア男の気質が入っているのではないかというくらい熱烈だそうである。そんな話を耳にし似たような偉人はいないだろうか頭の中の古びたコンピューターを動かし始めると、すぐにある人物にヒットした。それが1940年代で当確を表し始めたアメリカン・スタンダードと呼ばれる名曲を美しい歌唱で表現したフランク・シナトラである。1969年のアポロ計画でも宇宙飛行士が機内で流したことで有名なのが『Fly Me to the Moon (In Other Words)』は、クラシック中心だった家での音楽が時折シナトラの味のある声に代わり、木星と火星という言葉を知ったのもこの曲だったような気がする。また土曜日の昼に母と訪れたパーラーでよく流れていたのが『Strangers in the Night』、子供心に昼なのになぜ夜の曲が流れているのか?かと疑問に思いながら、アメリカンなランチを食べていると、青い目をした金髪の人が a wink を私たち姉妹に投げかけた。幼心に「これは何?』と衝撃を受けドギマギしたのを覚えている。当時としては歌詞の意味など到底解釈できる年齢ではなく、その内容を理解できた時には「なんと洒落っ気のある人だったんだ」と痺れた記憶がある。ただしその人が若き青年だったか、年を重ねた人だったかが思い出せない。きっとシワひとつない美しい青年であったと記憶定着を実行したい気分になる。父が歳をとると全て美化するようになると言っていたが、「まさしくこれか!!!」と驚愕しながらこの記事展開することになってしまった。前置きが本題になりそうな勢いを呈しているが、今回取り上げるのは『フランク・シナトラ』である。

フランク・シナトラ、「彼は完璧な歌手というより、人生経験をそのまま歌に変えられる人だった」との世間の評価が高い。失敗も成功も、恋愛も挫折も経験したからこそ、年齢を重ねるほど歌に深みが増し、晩年になっても多くの人を魅了し続けたのかもしれない。彼の感情を込めた歌唱力、舞台上での圧倒的な存在感、そしてファンや仲間を大事にする人間らしさは、どこで芽生えたのであろうか。そして彼を語るのに忘れてはならないのがマフィアとの関係である。マフィアとの関係を常に FBI に監視されていたシナトラであるが、彼が犯罪に加担した記録は残っていない。交流があったこと自体は、必ずしも犯罪への関与を意味するものではなく、私が勝手に想像するに当時のイタリア系移民社会では、実業家、政治家、芸能関係者、そして犯罪組織の関係者が同じ地域や社交の場で顔を合わせることが珍しくなかったからであろう。イタリア移民の子供であるシナトラにとってそれは避けては通れないものだったと言っても良いかもしれぬ。そして彼自身が身を置いた芸能活動においても、ナイトクラブやカジノ業界にマフィアが深く関わっていた時代である。人気歌手だったシナトラも、そうした会場で公演を行う機会が多く、その過程で関係者と知り合うことがあったのも事実である。また彼の人柄として交友関係が非常に広く、政治家、俳優、スポーツ選手などさまざまな人と親しくしており、その中にマフィア関係者が含まれていたことが度々憶測や報道の対象になったのではないか。そして私はこのシナトラがマフィアと言って英の距離を置きバランスをとることに長けていたのは、実は彼の母親の影響がかなり強いと考えている。もし私が母親であれば、胡散臭い人との関係性を排除する人生の進み方をアドヴァイスするかもしれないが、彼の母はそうではなかったとみている。ということでフランクシナトラの人生に母がどのような影響を与えたのか、探ってみよう。

1915年12月12日、ニュージャージー州のホーボーケンでイタリア移民の子としてシナトラは誕生した。父アントニノ・マーティ・シナトラは元ボクサーで、酒場を経営したり消防士として働いており、かなり寡黙で穏やかな人物であったようだ。

一方母ナタリーン・ドリー・シナトラ はイタリア系移民の家庭に育ち、非常に気が強く行動力のある女性であった。地域では助産師として多くの出産を手伝い、また地元政治にも積極的に関わる有力者でもあった。率直で決断力のある性格で人脈が広く、困っている人を助ける一方で、強引な交渉や政治的手腕でも知られていたという。息子シナトラに対しては愛情深い一方でとても厳しい母親で、シナトラがスターになった後も母は率直に意見を言い、遠慮なく叱ることがあったと伝えられ、シナトラは大スターになっても母の前では「息子」に戻るような一面があったという証言も残っている。彼にとり母の存在感は非常に大きく、「家の中心は父ではなく母だった」と彼は語っている。差別を受けることも少なくなく、裕福とは言えない家庭環境であったが、一人息子のシナトラは母に溺愛され、当時の子供達が身に付けることができない高級な衣服を身につけていたことから、「リトル公爵と」いうあだ名で呼ばれるほど周りの子供達中でも浮いた存在であった。この幼少期に身につけた一流の衣服を着るという影響は、歌手そして俳優になってからも強いこだわりとして残っている。そういえば私の母も子供は直ぐに大きくなるしという考え方はなく、「人は足元から見てくるんだよ。」と質の良い物をとこだわっていた。その記憶が強く残り今も注意を払うところである。こう考えると母の影響というものはかなり色々なところにはくううするものだ。

少し時系列が前後するが彼の誕生時のことに話を戻そう。彼は非常な難産の末に誕生した。医師は分娩を助けるために産科用の鉗子を使用したが、その際に彼の顔や耳、首に大きな傷を負わせてしまい、その影響で左耳の聴力が低下するだけでなく、生涯消えぬ傷を顔と首に残ってしまった。そんな聴力の問題も抱えながらも音楽に対する情熱は人一倍あった。一方学業に関してあまり熱心になれず、また喧嘩っ早い一面があり学校という環境に馴染めずにいた。そして16歳で高校を中退し町の小さなクラブで歌うようになった。実はシナトラは一才の楽譜を読むことができず、耳を頼りにコピーし曲を作り上げていったのであるが、幼い頃に受けた聴力低下は諸共せず、オーケストラの演奏に関する修正はドンピシャだったという。こう考えると誕生時に受けてしまった障害は、実は彼の才能を研ぎ澄ませるための神の悪戯だったのかと考えてしまう。その逆境を自分の味方につけたシナトラの才能と、母の強靭なまでの逆境に立ち向かう精神の強さと息子への愛がシナトラを成功に結びつけたのではないだろうか。シナトラは数多くの難題困難を抱え、シナトラはもう終わったと思われた時間を乗り越え再起を果たした人物である。その困難を乗り越える姿勢を見せたのは母ナタリーンである。彼女の息子として誕生していなければ、今彼の音楽を耳にすることはなかったのではないだろうか。この母なくしてシナトラは存在しなかった。

余談になるが友人の一人はイタリア人を伴侶にした。彼女曰く「何年経っても夫のマンマへの愛情は変わらない。ヤキモチの焼き通し」と笑っていた。イタリア人のマンマ愛は世界最高の値を打ち出すほどと聞いてはいたが、シナトラと母ナタリーンの関係も嫁が嫉妬するくらいの世界最高の愛だったのではないだろうか。ナタリーンは優しく子供を見守るタイプというよりも「お前ならできる、だから前へ前へと出ていくんだ。ぼーっとせずにさっさと進め」というようなタイプの母であり、また愛情深く息子を信じ抜いた圧倒的に強い母親であり、息子の才能を誰よりも信じた肝っ玉母さん、厳しさと行動力で息子を成功へ導いたパワフルな母、家庭でも地域でも主導権を握るカリスマ的な人物、愛情は深いが妥協を許さない母であり女性だったことが容易に推測できる。その母の影響を受けたシナトラの強い自信や負けず嫌いな性格、逆境でも立ち上がる精神力は、確実に彼女から受け継いだものだ。

しかしシナトラの音楽人生にもある日転落する時が訪れてしまう。デビュー以来絶頂期にあった彼の音楽人生が、1950年に入ると喉の出血で声が出なくなり、レコード会社から契約っを切られ、エージェントにも見捨てられるというどん底を味わった。彼は後に「タイムズスクエアの交差点を歩きながら自殺することばかりを考えてた」と語っている。しかし彼は起死回生を狙い、自力で立ち上がり、歌手ではなく俳優として人生の再起をかけた。歌で物語を伝えていた人生から、今度は芝居というもので物語を語るという道を選んだのだ。それも歌手の時代には考えられない低額の出演料で脇役を得るためにアプローチを掛けた。舞台の中央で多くの脚光を浴びた主人公から脇役である。その映画『が地上より永遠に』だ。この映画で彼はアカデミー賞助演男優賞を受賞し奇跡のカンバックを果たしている。主人公から脇役、高額な出演料から歌手の時代からは想像もできないほどの安い出演料、そして同じ物語を伝えるにしても歌と映画という大きな畑の違いに自ら飛び込んだのである。再起できるという保証が一切ない中で、彼はなぜ英断できたのか。私が想像するに「一からの出直しに過去に囚われることなく、自らの現状を全て自分のものとして受け入れ、新しい場所でやり通すという固い決意と確実な行動を起こしていたのだと考える。生半可な考えや行動では彼の才気は得られない。かなり強い意志で全てを決断したのだろう。その結果、俳優としての成功が歌手フランク・シナトラの第二の黄金時代を切り開いたと言える。

のちに彼は語っている。歌手としての致命的なものを抱え、これまで築いた多くのものを失いながらも、生涯を通じて自分を「まず歌手」と考えていた。自分自身は歌を糧に生きてきた。しかし今はそれができない。しかしいつの日か自分自身の転職というものにもう一度巡り会うために、今できることは何かと考え、真剣に向き合い、今行うことに全力投球をするということで自分自身の閉ざされた道を押し開いたのだ。人それぞれ抱えるものの大きさや度合い、言えぬ傷の深さや困難は人それぞれ異なるが、今の苦しみを肥やしに、そして人生が今以上に実りあるものとしてやり抜いてそして生き抜いてこそ、その次の尊いものを手にできるとフランクシナトラの人生から読み解くことができる。彼が俳優の道に進んだ理由を一言で表すなら、「歌手としての表現を広げ、逆境を乗り越えるために俳優へ挑戦し、その挑戦が人生を変えた。そして彼の代名詞となる名曲『My Way』に巡り会えた。

曲中に「人生を振り返り、成功も失敗も受け入れる」こと、「後悔はあっても、自分で選んだ人生だったことに誇りを持つ」こと、「他人の期待ではなく、自分の信念に従って生きることの大切さ」、最後に「私は私のやり方で生きた(I did it my way)」と締めくくられ、自分の人生を肯定する内容の歌詞である。人生には山もあれば谷もある。八方塞がりでどうしようもない状況に陥ったとしても、必ず側に泉が湧き出ている。私たち母親には愛情という枯渇しない泉を持っている。その泉は子供にとって最重要で最後の砦のだ。心が挫けそうになっても、親が自分を見失うことがなく子供に真摯に物事に向き合っている姿勢を示せば、たとえ子供自身が躓いて転んでも自分自身の力だ立ち上がる子供に成長すると私は確信している。そのことがフランク・シナトラと母ナタリーンの生き方から学ぶことができるのだ。


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